わたしたちは、さまざまな制限を自分自身に課しています。
せいぜいここまでしかできない。
せめて、これだけは欲しい。
あの人と自分は、元々の“でき”が違うからしかたない。
あの人のようになるには、少なくとも10年かかる。そんな悠長なこと言ってられない。
このトシになってそんなことをやり遂げた人なんていない。
その他いろいろ。
制限をかけると、心は弱まります。正確には、心が弱まるなどということはないのですが、弱まっている気がします。
それは、逃れようのないことで、「弱いと思わないようにしよう」「ポジティブに考えよう」と努力しても効果はありません。
自分には限界がある、という信念は、たぶん、自分が認めているよりずっと、わたしたちを小さき者にし、苦しめているはずだからです。
わたしたちが、自分で指揮棒をとり、すべてをコントロールしようとするのは、なぜでしょう。横暴で無情で臆病で傲慢だから? いいえ。苦しいから、指揮棒を振るしかないと信じているから、あえぎながら渾身の力をこめて、振るのです。
すると、楽団のひとりひとり(=人のこと)が気になり出します。
人と比べ始めます。
人との関係に衝突が生じます。
コントロールしようとする思いが鏡に映し出されると、“問題”になります。
そして、その思いは、自分に制限をかけるところから来ます。
制限はどうして始まったのでしょう?
自分は頭が悪い、とか、自分は美しくない、という自己認識は、大きな制限を作ります。なぜそんなふうに自分のことを考えるようになったのでしょう?
誰と比べているのでしょう?
そうでした、人と比べるのは、自分に制限をかけて、物事をコントロールしなければと信じ始めるときに起こることでした。
え?
なんですって?
それでは堂々巡りじゃないですか。
そうなのです。堂々巡りです。
もともとの自己認識が間違っていると、その間違いは次々と細胞分裂して、数えきれない間違いを作っていきます。
自分とは、この身体が表すごとく、人間である。
と、決め込むなら、さっそく制限が続々と登場するのは当然のことです。
人間とは、生まれて死ぬもの、ライオンやクマやサメと素手で戦っても勝てないもの、脆弱な身体を持つ生き物、、、であるならば、そこですでに大きな制限がかかっています。
ですから、気持ちを落ち着けて その問題の解決に取り組もうとしても、土台の自己認識が間違っているので、堂々巡りになるのです。
万物は霊である。
自分とは、霊的存在である。
根本的な制限は取り払うには、「万物は霊である。自分とは、霊的存在である」ということを受け取りたいという意欲を持つしかありません。
どんな人間か、どんな人生か、ということよりずっと前に犯している、自分が人間だという誤った認識、それが数々の問題の根っこであるなら、その根っこを引き抜くことができるのは、人間である自分ではないし、他の人間でもないのは明らかです。
霊=スピリットに引き抜いてとお願いするしかありません。
祈りとは、なによりもまず、お願いです。
祈りとは、スピリットにお願いすることです。
何をおいても、スピリットにお願いしよう、つながろうとする心から起こるものです。
スピリットは、自分でこしらえた制限の数々、すなわち、問題の数々を取り払い、制限のない、“無限”というスピリットの自己に戻らせてくれます。
ほんとうの自分とは、制限付きの存在ではなく、あらゆる意味において無限なのです。
えーと、
では、、、
どうやって、その“無限”を経験するの?
ふたつ、やり方があると言えると思っています。
ひとつは、お手上げの状況に陥ること、絶望の縁に立つこと。指揮棒を握りたくても、その気力も失せた状態になること。
もうひとつは、想像力を駆使すること、です。
そう、祈りとは、想像力を使うこと、とも言えます。
それも、今までとは違ったやり方で。
「この人はどんなつもりであんなことを言ったのだろう」「家を買ったらどんなに嬉しいだろう」「この病気が治ったら、スペイン旅行したい」というような、使い方ではなく、
ただひたすら、“無限”を想像するのです。
レモンの味を想像するなら簡単です。思い出すだけで唾液があふれてきます。
無限もまた、思い出せば、五感も、身体の機能も反応するでしょう。
わたしたちは、レモンの味は覚えていますが、無限の感覚は忘れています。
それどころか、「無限なんて経験したことないし」と信じています。
無限を、思い出そうとしてみるなら、馴染みのないものではなかったことに気づきます。
制限から無限へ。
限られた時空から、永遠へ。
無常の世界から、恒久の確かな王国へ。
この大きな飛躍を経験するのが、クォンタム・プレイヤーです。
無限を想像してみる、ということを、ちょっとやってみましょう。
「自分が永遠に生きると保証されているとしたら、どんな感じだろう?」
「この人との関係が、絶対に変わらない、終わらないと保証されているとしたら、どんな感じだろう?」
「わたしには、欠けているものがないと保証されているとしたら、どんな感じだろう?」
練習を、楽しくやりましょう。
自分でやろうとすると、へこみます。
お願いしましょう、スピリットに。
お願いすることで、想像するのです。
わたしに、想像させてください。
感じさせてください。
無限を感じる練習に慣れている人に一緒にやってもらうと、共振して、無限感覚がいっそう戻ってきやすくなると思います。
わたしたち、無限の感覚、知ってたんだ!
これって、経験したことある気がするね。
一緒に喜び合えたら最高です。
想像力が鍵!
祈りの力は、想像力とともに育ちます。
プラクティショナーの紹介は、下記のリンクをご覧ください。
http://ameblo.jp/quantum-prayer/theme-10097007177.html
「自分で自分を変えることができる、という思い込みに縛られていたのは、もう過去のことです。自分しだいで、人生は幸福にも不幸にもなる、と信じていたときの緊張は、すっかりとれてしまいました。この祈りとともにいる一日は、何をしていても、この喜びと感謝だけがあります。自由そのもの、という新しい感覚がやってきます。」(「奇跡のコースのワークを学ぶガイドブック9 <祈りのある生き方>より)
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