リチャード・リーヴス氏が< Infamy > (by Richard Leeves)(=不名誉)という新作を出し、それが日系アメリカ人の強制収容所についてのことであり、そして著者がジャパン・ソサエティで講演をすると聞き、これは万難を排して行かなければと、出かけてきました。

なぜ万難を排してまでも、なのかというと、第二次世界大戦時とその後の日系アメリカ人に関してのさまざまなこと(第二次世界大戦時に多くの日系アメリカ人が収容所に強制連行されたことを中心に)が、わたしのライフワークのテーマのひとつとなっているからです(このことについては、拙著『サンシップ』のなかで少し触れました)。

そしてなぜライフワークかというと、たまたま、アメリカ在住の二世の方々との交流があったからというだけの理由ですが、ライフワークでも、職業でも、人生の道行きとは、そのようなものではないでしょうか。

リーヴス氏はピューリツァ賞受賞のジャーナリストです。数々の著作を持つベストセラー作家が、戦時の日系アメリカ人に起きたこと(彼の扱ってきたテーマと比べると、かなりマイナーです)を今更(特にタイムリーではないという意味で)書き起こした理由を知りたかったのですが、答えは拍子抜けするものでした。

「誰も知らないから」。

そして、

「誰も知らないので、同じことがまた繰り返されるかもしれない。それを避けなければと思ったから」。

誰も知らない、ということにわたしは驚きましたが、彼の言う「誰も」は、アメリカ人のことを指しています。「でも、日本人も知らないのでは?」と、わたしはふと思いました。

知らない人がいるわけがない、というのはわたしの思い込みではないかと。わたしだって、先ほど書いたように、“たまたま”知る機会を得ただけで、わたしが無知なことも世界には山ほどあるはずです。

かつて、マルコムXがわたしのアイドルになってから(こちらも、たまたま、が重なってのことです)スパイク・リーの『マルコムX』が映画になり、ニューヨークの映画館で、大勢の黒人の子供たちが「こんな人がいたなんて知らなかった」と驚いているのを目の当たりにして仰天したことがありました。マルコムXを、伝説の野球選手と勘違いしたアメリカの子供たちも少なからずいるとのニュースもありました。

スパイク・リーの映画を通して『マルコムX』を“観た”人たちのなかで、何人が、「あの映画で彼のことを知った」と後に言うでしょうか。引っかかることになっている者だけが、そちらに導かれていくのだと思います。別なものに引っかかって、そちらに進む人たちが大勢いるなかで。

どんなことでも、それは“たまたま”の積み重ねであり(たとえば、「自分の意志でニューヨークに移り住んだ」と思い込んでいても、実はそれは、たまたま、の積み重ねでそうなった、というような)、そして、さらに、その“たまたま”を通過することで、 「知ることになっている人だけがそれを知ることになる」ということではないかと思うのです。

マルコムXにしても、日系アメリカ人の強制収容所にしても、ニューヨークという場所にしても、いくつもの“たまたま”がやってきて、それにわたしが“引っかかった”ので、それらを今、知るようになっているのです。もちろん、それらを完全に知っているとは言えないので、「もっと知りたい」というライフワークになるというわけです。

何かを知っている、とは、それをもっと知りたいと願うこと。

と、言えるかもしれません。

ちょうど、

愛するとは、もっと愛したいと願うこと。

と、同じように。

知ることと、愛することは同じで、どちらも、限界がありません。

わたしが“たまたま”出会うことや受け取る情報と、そのなかで、わたしが“引っかかって”きたことには、わたし自身の意志はまったく関わっていません。どれも、「そうなっているのだから受け取るしかない」という感じです。“あらかじめ、引っかかるようになっているのだったら抵抗しても無駄”と言ってもいいでしょう。

運命はあらかじめ決まっている、というのは、そういうところにも関わっていると思います。神の叡智が、わたしにそれを受け取らせ、その完全調和のなかで小さなパートを請け負わせるのです。わたしたちは、その、請け負ったものに責任を持つだけです。

知るということは、「マルコムXに代わって、申し上げます」と、彼の後見人になるということと言っても言い過ぎではないような気がします。

「全日系アメリカ人、否、全日本人の思いとして、このようにお伝えいたします」と言ってはばからなくていいほどに、知るということではないかと思います。

「ニューヨークの良いところも良くないところも知り尽くしている気がしますが、まだまだ知らないことばかり、もっとニューヨークから学びたいです」と、謙虚になることでもあると思います。

わたしが知覚することはすべてわたしの責任。それは、「日系アメリカ人を強制収容所に連行して、申し訳ありませんでした。すべてわたしの罪です」ということではありませんが、「そのような過ちを犯すのは自分も含めて誰も同じ。まっすぐ過ちを認め、心を正して、二度と繰り返さないようにしたい」と願うことではあると思います。

先に、「引っかかってしまうのはしかたない」と書きましたが、引っかかるはずのところをスルーしてしまう、ということも、多々あると思います。わたしにも、山ほどあると思います。それは、「見つけてね!」と、そばにそっと置かれた贈り物を、他のあれこれの思いで心をいっぱいにしているために見逃してしまった、ということなのだと思います。

見逃しても、運命はあきらめないので、また巡ってくるし、時間が無駄になるということでもないので、心配無用。とはいえ、日々を、見逃すだけで過ごす代わりに、受け取り、よりよく知り、より深く愛し、より確信を持って、On behalf of~ (「〜に代わりまして、」「〜のために、」)と言いたいです。「サンシップに則って」といつも思っていたいです。

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追記:リーヴス氏の著書のポイントのひとつは、ルーズベルト大統領が、ここで過ちを犯している、ということです。ルーズベルト大統領は、アメリカ人のなかでかなり評価が高く、その大統領のミステイクが指摘されていることに反応するアメリカ人も会場にいました。見解の違い、立場の違いで、歴史というものは百人百様の見方ができるもの、という以上に、百人百様の歴史があるのだと思いました。しかも、その歴史は(見方は)刻一刻と変わるかもしれないのです。