6. キスの音

裏庭にサトルくんを見つけたとき、一陣の風がわたしのからだを吹きぬけていくような感じがした。
もう会えないかとあきらめかけていたのだ。
彼は箒の柄に両手を乗せて、棺ほどの大きさの池のほとりに立っていた。池の向こう側の、白い百合の群生を、見ていた。

祖母がこの老人ホームに来たのは、サトルくんが百合の球根を植えた頃で、それが今、大振りの花を咲かせている。祖母はその花を見る前に逝った。
電車を三本乗り継いで行く、緑の山々に囲まれたホーム。通訳業に週末も休日もあったものではなく、丸一日をついやす遠足を敢行するのは楽ではなかったが、わたしは、週一、できれば週に三日を、その遠足にあてていた。

祖母のやせたからだは、まだ枯れきっているわけではなく、痛みや出血や発熱をくりかえしながら、持てる力を、死への準備にあてたらよいのか、生きる活力にしたほうがよいのか、行きつ戻りつ迷いながら、山と渓谷のみずみずしさのただ中に横たわっていた。

春から初夏にかけて勢いよく伸び、しげる樹々。日々、高くなっていく空。屋上に上がれば、渓谷の底に、陽を照り返して白く光る谷川が見えた。
車いすに乗せて散歩に出ると、「いい気持ち」と祖母は言った。しずかな、心をこめた、祖母らしい口調だったが、実のところ、その心は、この世のものではない、別のものにすでに占められていると思わせるトーンが混じっていた。わたしは、自分がほどけていく感じがした。

親代わりにわたしを育ててくれ、三年前、離婚して実家に戻ったわたしを、同じ部屋で寝かせてくれた祖母。今、その心をしめているのは何なのか。
わたしでないことだけは確かだ。
この世で祖母が見ているのは、わたしでも母でも叔母たちでもなく、サトルくんだけだという気がすることもあった。

彼が掃除にやってくるのは午後の二時頃。モップの先が、まず現れる。のれんをわけて、頭が出てくる。そして、にっこりと笑う。そのたびに祖母の目にもやわらかみが宿った。やさしいねえ、ありがとうねえ。祖母は、小さな声を出した。
ベッドからそろそろと腕を出して、彼の手を握ろうとした。サトルくんは、自分の手が汚れているからとそぶりで示すが、けっきょく小指を差し出して、祖母の手に握られたのだっけ。

あの、ほんのわずかなひととき。祖母が声を絞り出し、骨の皮となった、けれどなめらかに白い、腕と手を、ゆっくりと、まるで貴婦人のように差し出すとき。
彼女はたしかにここに、この世にいた。
そして彼が、祖母に小指を握られながら、はにかんだ表情でわたしをちらりと見るとき、その笑顔の魔術に、わたしの体内でも心臓が強く動き出すのだった。
そう、彼の笑顔は、魔術なのだ。この世に、今ここに、この息づかいに、引き戻させる力、からだに炎がともり、心に風を吹き渡らせる力をもつ魔術。

「サトルくんはね、耳がよく聴こえないのよ」あるとき、告げると、祖母は、目を見開いて反応した。「声もほとんど出せないんだって。高校生のときに病気して以来だって、施設長の吉川さんが言ってた」

代わってあげたいねえ。あたしのの耳と喉をあげてから逝きたいねえ。
祖母が繰り返しつぶやいた、その言葉を、その感謝を、サトルくんに伝えたい。そしてあの魔術をもう一度見たい。
それが、祖母の死後ふたたびホームを訪ねた理由、そして二ヶ月もためらった理由だった。
サトルくんに会ってどうする、何を期待している、という声が、心の奥で消えなかった。

彼は、わたしを見て、驚いた様子を見せなかった。まるでわたしが来ることがわかっていたかのような自然さでわたしを見つめ、手を差し出した。
その手を、わたしは、両手で包み込んだ。さらさらした感触か手のひらを押し返してくるような、かすかな、でも力のこもった動き。

間近で、正面から彼を見るのははじめてだ。耳の半分を覆っているのは若白髪で、それが長くアーチを描く眉と、長い睫毛に縁取られた目の若さを際立たせている。
二十代の中頃か。若いというより、幼子のような無邪気さがある。なにかをあきらめてしまった、または悟ったような、老成した雰囲気もある。祖母はどちらを見ていたのだろう。どちらを好きになったんだろう。

彼の手を包んでいた両手を開き、彼の小指だけを握りなおすと、サトルくんが、大きく微笑んだ。歯並びはよくないが、意外に清潔な白い歯とピンク色の歯茎が見えた。
彼の肩越しで、百合が大きく揺れた。くびすじを、自分の髪が撫でていくのを、感じた。半袖のレーヨンのワンピースの袖口が、腕の付け根のまわりに、まとわっているのを感じた。

自分が何かを言おうとしている。けれど言葉が口のなかでくぐもって、絡まって、声が出ない。
唇の、わなわなとした震えをじっと見ているサトルくんの目を、わたしは見ていた。

手のひらから、指がするりとすり抜けた。
あっという間だった。指の先が顎に添えられ、彼の唇が、一瞬わたしのそれに触れたのは。
彼の、笑みをたたえた目が、覗き込んでいる。落ち着いて、と諭していた。

自分が、泣くかと思った。祖母が死んで、今やっと泣けるのかと思った。代わりに唇が、動いた。サトルくんのそれに、近づいていった。
唇が触れ合ったまま、彼の口から何かが漏れた。
「き・こ・え・る・よ」
彼は、葉ずれのような、かすれた音を、ゆっくり、区切りながら、絞り出した。「こ・う・す・る・と」目を閉じ、くちびるをさらにおしつけてきた。「き・み・が・き・こ・え・る」
心に風が吹く。百合が一斉にゆれる。そして、鎮まる。
聞こえた。
からだのなかで、かすかに聞こえだしたその音は、やがて全身に響きわたった。

キスがこんな音を奏でるなんて、知らなかった。こんななつかしい響きだなんて、知らなかった。
唇を触れ合わせたまま、わたしは耳をすませていた。
寺の鐘の余韻にも似ている。深く、低く、同時に静けさに限りなく近い音。はじめて聴く、しかし懐かしい音。

om home. om home.

わたしは、音が、全身を満たしていくのに身をゆだねていた。
その音の彼方に、祖母の気配を感じていた。
音が、祖母の声に限りなく近くなっていくのを、聴いていた。

(初出誌 MY LOHAS 2006年1月号)