3. 満月まで

風が強い夜道を帰る。満月に一日足りない月がぽっかり大きく、浮かんでいる。くっきりと白く照らされたうす雲が、月の下半分をかすめて流れていく。  こんな夜こそ会いたいと心のなかでつぶやきながら、あなたのアパートの前を通る。  ばったり会わないかと期待して、あなたのアパートの前を通るのはいつものことだ。顔や服装に自信がないとき、ビニールのショッピングバッグなどぶらさげておばさんぽいとき、あなたの通りは避けていく。

あなたがこの駅前に越してきて二年にもなるというのに、未だに会えないのはどうしてかなとよく考える。ランチタイムや、月曜の朝の会議中にも考える。いつか会うだろう、ばったり会って、近所でワインでも一杯どう? なんていうふうになるだろう、そうしたら、駅前の路地を入った新しいけど老舗っぽい造りのこじんまりとしたワインバーに、わたしから、それとも彼から、誘うことになって、わたしはそこで、フルボディの赤を注文するのだ、などと思っている自分もいるし、そういうことは起きないものよと、きっぱりあきらめている自分もいる。すぐ近くでいつもすれ違っているはずなのに、ばったり会うことなどなく、いつしかどこかに消えてしまった人は過去にもいるのだ。それもひとりではなく。

あなたがわたしの勤務先に現れ、わたしの机のそばを通っていき、あ、元気? と声をかける。あれ? ちょっとふっくらしたね、きれいになったね。相変わらずチャーミングだね。

口の軽い男なのだ。誰にでも甘い言葉をさらりとかける。二年前までニューヨークに駐在していたということを、西洋風の洒落た独身男を気取る言い訳にしている。軽口に乗って、彼にぼおっとなってる社員もいる。つまらない女だ。あんな女を彼が好きになるはずもない、などと意地悪く思っている自分がいる。それも繰り返し思っている。まるでわたし自身に言い聞かせるように。そう、わたしは嫉妬しているのだ。彼女が独身だから。だから彼に誘われて、千駄ヶ谷でアイススケートを一緒にしたりできる。

わたしは、甘い言葉にぐらりとなるような、やわな女じゃない。ちょっと触られたくらいでかっと身体が熱くなるような、さみしい女じゃない。そんな女に見られたくない。
エレベーターで二人きりで乗り合わせたときに、彼の手がさっと伸びて、頬にかかったわたしの髪をかきあげた。あの感触が忘れられずにいる。 彼の、骨張った、大きな手が好き。彼が、眼鏡の奥から、細い目をさらに細めて、わたしを見るときに必ず感じるせつなさがたまらない。彼の目は、わたしを射抜く。

君の心の奥が見えるよ。まだ使っていないところがあるね。出してごらん。出してみせたい。そう誘われているように感じる。
なんでこんなところにいるの。結婚しても事務仕事続けて、小金稼いで、そうやってトシとってくの。退屈しのぎなんでしょう? いいの、このままで?  そんな幻聴まで、未だに心に居座っている。  小娘みたいに、あわてて目をそらす、なんていうへまをやらかさないようにやっとのことでこらえながら、わたしが彼を見返す視線は、まっぷたつに引き裂かれている。 勘違いしないでね、坊や、わたしは幸福で満たされている人妻なのよ、と伝えようとしている部分と。引き出して、わたしをもっと出させて、とすがりつきそうな部分と。

エレベーターで、彼は、濃い緑色のアニエスbのスーツを着て、片手にアタッシュケースを持ち、同じ側の肩から、長い筒のようなものをぶらさげていた。ヨガのマットケースとすぐわかるやわらかい黒地の袋に包まれていて、袋には、小さなポケットがあり、薄い緑の糸で、蓮の花のような刺繍がほどこされていた。  いつも隙なくスタイリッシュにきめている人が、いかにも素朴なものを無造作にぶらさげている、その落差に心がぐらりと吸い込まれていきそうな感覚に、とらわれた。そのギャップを覗き込めば、そこに、わたしの知らない、美味な飲み物が、魅惑的な香りを漂わせて、たたえられているかのように。

けれどもその飲み物の香りが鼻先に届いたような気がした、すぐあとに、きりきりとした痛みが胸の中心で、うずく。女ね。自分の声が心のなかでヒステリックに反響する。女と一緒にヨガをやっているのね。誰? あの子? アイススケートをした、あの子ね? 「あら、木元さん、ピラテスやってるの」  わたしは、うんと笑いを含めて言う。 「よくわかったね。美容のためにね」  彼はすかさず、笑って返す。射抜くように、あるいは、憧れるようにわたしの目を見つめながら。  そんなはずないわ。かすれた、別の声が心のなかにこだまする。彼はまだ、誰も愛していない。恋していない。だって、こんなにも切実に、求める眼をしているじゃないの。こんなにも乾いているじゃないの。かわいそうなほど。 「ほんとは何?ヨガやってるの」  軽口のつもりが、雛のさえずりのようになってしまった。  葛藤がバレてしまった、と思う。降参して、わたしもあなたを覗き込みたいと、伝えてしまっていいのだという安心感と、弱みを見せちゃだめ、と慌てる部分との。 「タオ指圧っていうんだ。知ってる?」  思いがけず、真面目な返事が来た。 「触らない指圧なの。押す代わりにね、気をツボにつなげんの」
両手を胸の前にかざしてみせた。大真面目な顔。わたしの好きな手。 「押してもらわないで、指圧してもらった気になるのむずかしそうね」 「そう思うでしょ。ところが反対なのよ、これが」  触らないからほんとうのことが見える。五感に頼らないで、目に見えないものを見る。そういうヤツなのよ。ぞくっとしない? するでしょ? けっこうはまってるんだ、この訓練。

エレベーターが八階について、すると彼はドアに手をかけわたしを通し、自分も降りて、話し続けた。真剣に話した。今までのジョークや、お互いにないフリをしていた心の駆け引きみたいなものを全部ちりぢりに砕いてしまうような太い、まっすぐな熱を吹きかけられているようだった。 「広告屋辞めて鞍替えするつもりでやってるわけじゃないよ」  脱サラの準備と勘違いしないでくれと、目が言っていたなと思い出す。 「何して食べていくなんて、どうでもいいよ。たださ、賭けられるものっていつも欲しいし、それを追求していくってことしないとさ、しんどいよね。真剣勝負、してたいじゃない、いつだって」  この最後の台詞を口にしながら、彼はわたしの髪を掻きあげたのだった。だからかもしれない。真剣勝負、という言葉がわたしの胸にぐっと来たのは。

その四文字が胸のなかで、今も踊っているのを感じながら、あなたのアパートの前を通り過ぎる。やっぱり、今日も会わなかった。
風にあおられる髪を、両手で押さえる。彼には会わなかったけど、代わりに正面から月がわたしを見ている、と思う。あなたも真剣勝負をするのね、どうやってか、まだわからなくても、真剣勝負をすることだけは、わかっているわねと、月がやさしく話しかけてくれている。なんだろ、それは。私もタオ指圧?彼への想い?それとも?  明日の晩にここを通るときまでに、はい、と返事のできる自分になっておきます。月に向かってそう答える。明日の晩、満月までには。

(初出誌 MY LOHAS 2006年 5月号)