2. 恋する花嫁

「努力するってことを覚えたら、ぜったい、ぜったい、ぜったい、ご褒美がもらえるんだよ」
女の子がそう言って、腕組みをした男の子とふたり、並んで通りをわたって行った。
女の子、男の子、と言っても、実は大人だ。ふたりとも背が低く、華奢で、女のほうは、サンドレスのむき出しの肩が、小学生みたいに細かった。男のほうは、ショート・パンツから伸びた短い脚の、特に太ももの未熟な細さが目立った。でも、そんなふうに見てしまうは、わたしが十年もフロリダに住んで、アメリカ人のボーイフレンドを持って、すっかりアメリカ人の風貌に目が慣らされてしまったことと、なにより、わたし自身の体型が、アメリカナイズされてしまったことによるところが大きい。

カップルは、ほぼ間違いなく、新婚旅行客だ。今朝、もう一本向こうの、海岸通りに面しているシェラトン・ホテルの前にツアーバスが停まって、日本人が大勢出てきた。そのなかのカップルではないかと見えた。あるいは、ここナッソーとパラダイス・アイランドの間に停泊しているカリブ・クルーズ大型船の客かもしれない。
ふたりは、通りをわたってそのまま、角のアイスクリーム屋に入っていった。こちらに背を向けて、注文カウンターに立ったふたりは、やはり子どもが並んでいるように見える。この子たちの親はどこかしらとまわりを探したくなる。
わたしは、歩道にせり出したオープンカフェの椅子に腰をかけた。向かいのアイスクリーム屋がよく見えた。

努力すれば、ご褒美がもらえる。
ぜったい、ぜったい、ぜったい、もらえる。

新妻の力んだ声が、耳に響いている。涙ぐみそうになる。
彼女の優しさと無邪気さ、期待と祈りが心の奥に届くような気がして。その必死さが胸に響いて。
新郎は努力をしない人間なのだ。そのままではダメだと彼女は思っている。それでも彼に恋している。その恋心のほとばしりが、声に、言葉に、あふれている。
けれど、彼は、決して努力することを覚えないだろうし、ご褒美ももらえないだろう。彼女に発破をかけられて、彼は頑張るかもしれない。でも、口やかましく道を説くほど、彼は彼女の期待とは離れた人生を行くようになるだろう。
わたしには、わかる。あの新郎に能力がないのがわかるのではなく、そのように新郎に希望を寄せるとき、その希望は決してかなわないとわかるのだ。
なぜなら、努力してご褒美をもらわなくてはならないのは彼女のほうであり、そのご褒美は、夫から来るものではないからだ。

二十年も前、わたしも彼女のように結婚した。夫を支えられる妻になるように、夫を助け、励まし、育てられる妻になれるようにと幼い心に決めた、二十五歳の花嫁だった。あれも、やっぱり六月だったっけ。
わたしは彼に、恋をしていた。彼に恋をして結婚したのだ。二年後、これでは自分はダメになると感じて別れたときも、まだ恋をしていたと思う。

ふたりは色違いのアイスクリーム・コーンを持って、店の前のベンチに座った。彼女は今も、しゃべっている。片手でコーンを握りしめ、片手で彼のポニーテールに触れながら、熱弁している。男のほうは、ライム色のアイスを小さな舌で舐めている。
男のウエスト・バッグに、やはりライム色のバッジがついているのが見えた。カリブ・クルーズ船の乗客に配られるバッジである。
一週間前にマイアミを出たその船に、わたしも乗ってやってきた。一週間、朝から晩まで客船の調理室にこもり、二十一人の同僚とともに、ひたすら野菜を刻み、海老をマリネして、薄くスライスしたポテトを揚げた。アボカドと、サーモンの切れ端で、巻き寿司もこしらえた。
午後の半ばにやっと休憩時間がある。わたしはいつも、ひとけのない従業員専用エリアの甲板に出て、ブレンダーで作った野菜ジュースを1リットルボトルからじかに飲んだ。それがわたしの昼食で、朝も晩も同じだった。
一年のほとんどを、カリブ海をクルーズしながら料理をするのが仕事だというのに、わたしは船の揺れに弱い。体調を保ち、味覚を鋭敏にしておくために、船に乗っている間は、固形物をとらないようにしている。乗物酔いの薬を飲まなければならないこともある。それでも、海に出ていることが好きだ。
サプリメントを混ぜ入れたドリンクを、食べるようにゆっくり喉に流し込みながら、目の覚めるような空とカリブの海原を眺める。やっと戻ってきた、と感じる。まさしく恋の胸苦しさを覚える。

海の、深い青がトルコブルーに変わり、グリーンが現れ、コーラルが透けて見える。
地球がたたえる水の、または太陽の光の、この美しさを目の当たりにするときにいちばん、カールに対する愛情が、心からこぼれ出るように感じる。
ぼくと結婚してください、とカールが思い詰めるように言ったのは、一週間と一日前の深夜で、わたしと結婚したい理由は、わたしに恋をしていること、わたしを愛していること、わたしが陸を離れている時間が長いのが耐えられない、結婚して一緒にマイアミでレストランをやっていこう、ふたりはそれぞれ一流のシェフだから、というものだった。
あの甘い言葉を、毎日午後の半ばに、海に魅せられながら思い起こしていた。そして今、ナッソーの、土産物屋が並び、観光客にあふれる通りで、ブルーベリーのスムージーをストローで吸い上げながら、アイスクリーム・コーンを舐める若い新婚カップルを眺めながら、よみがえらせている。

結婚した相手はサーファーだったから、わたしたちは、いつも海辺にいた。けれどもわたしは、大海原の輝きを目の前にするときはいつでも、自分だけが醜い、自分だけが汚れていると感じていた。彼の成功、彼の愛ばかりを願って、自分が空っぽだと気づいたからだ。自分が好きでなかったからだ。
ありのままの自分を好きになるなんていうことができるわけがない。あんな自分はやはり好きになってはいけなかったのだ。好きではない自分を好きになる努力などナンセンスにちがいない。好きになれる自分にならなくてはいけない。
ごまかしをやめよう。あのときは、ただそう思った。ごまかしをやめるとは、結婚をやめるということだった。わたしは、夫に希望を託し、夫に期待をかけ、夫を案じるのをやめなければならなかった。それがなぜだか、はっきりわかっていなかったけれど、今ならわかる。自分を好きになるとは、自分の心を引き受けられるということだ。誰かに託す代わりに。
アメリカに来たのも、寝食を犠牲にして働きながら調理学校を卒業したのも、永住権を得て、正社員の報酬を受けられるまでになったすべての努力は、自分の心に責任を持つために捧げられていたのだと思う。
わたしは、変わっただろうか。好きになれる自分に? 並んでアイスクリームを舐める、恋する花嫁の自分は、今もこの胸の内に生きている。違うのは、ほんとうに恋するものを見つけたことだ。海を、光を、恋することを知ったことだ。

新婚カップルが、まだコーンをかじりながら立ち上がった。手をつなぎ、同じ高さの肩を寄せ合って、降り注ぐ陽射しのなかを歩いていく。
そう、あなたたちに話したい。相手に恋をしちゃいけない。宇宙を恋すること、自然に恋すること、生命に恋することを覚えなきゃ。そうして初めて、相手を愛し、抱きとめることができる。
戻ったら、カールに話そう。わたしには、恋する海原が必要だということ。クルーズの日々があるから、あなたを愛していられるのだということを。
カップルの姿はもう見えない。午後の残りを、彼女は、さっきのように、彼の顔を見つめながら過ごすのだろうか。
観光客の行き交うショッピング通りに、六月のバハマの陽射しがあふれている。わたしは、その光のなかで祈らずにいられない。
恋人たちよ。そしてわたしよ。お互いを見つめるよりも、どうか、このカリブの海の輝きを心に刻んでいくように。それが、ふたりの愛を育む。それだけが。

(初出誌 MY LOHAS 2006年7月号)