1. 手紙を書く人

隣のテーブルで、彼女はまだ書いていた。
薄いブルーの便せんの、五枚目くらいを書いている。ブルガリの時計をはめた、すんなりした手がボールペンを握り、休むことなく、一定の速度で動き続けている。便せんには、何か模様が入っているのだろうか。花束か白鳥の絵柄とか。気をとられながら、わたしは水を飲み、携帯電話を確認する。「ごめん、今から出る。三十分遅れる」。木村からの短いメッセージはさっき見た。三十分遅れの六時半を、すでに十分過ぎている。
六本木にそびえる有名なビルの三階、窓ガラスに沿って長く伸びるオープン・カフェには、いつも、電車を乗り継ぎ、二時間かけてやってくる。はじめて来たのは五か月前で、インターネットからプリントアウトした地図を握りしめていた。エスプレッソのカップを前に、フロアを行き来する人たちを呆然として眺めていた。お洒落な人が多いのは当然ながら、男女とも、颯爽としているのがまぶしかった。とにかく、きれいな女性が多かった。度肝を抜かれるほど美しく、雰囲気のある女性が。

ここにいると、自分がダサイことがはっきりわかる。わたしは、太っているわけでもないし、シルクのワンピースは、去年のバーゲン品とはいえラルフローレンだけれども、いかにも郊外に引っ込んでいる主婦の生活の垢みたいなものが見えてしまっているんじゃないか。子どもを怒鳴り散らしながら在宅ビジネスでへそくりを捻出しているみみっちさが透けてるんじゃないか。なにより、一か月に一度の逢瀬を心の拠り所にしているような、すかすかの心模様がばれてるんじゃないか。しかも、逢瀬の相手が高校時代のボーイフレンドだなんて。

会社の退け時で、エレベーターから人が吐き出されてくる。こんなじゃなかった、わたしが勤めていたときは。会社員というものは、こんな生き生きとした、個性的な人たちではなかった。十年経って世の中が変わったのか、それともここが六本木の特別なビルだからなのだろうか。それともただ、わたしがダサくなったせいで、誰を見てもまぶしいのかしら。わたしはそこを逃げ出したくなった。十五年ぶりに会うことになる木村が、わたしを、このような女性たちの仲間と勘違いしていたらどうしよう。木村自身が、こんな美男子のひとりだったらどうしよう。現れたのが、顔の丸くふくらんだ、脚の短いおじさんだったのでほっと胸を撫で下ろした初日のデートを覚えている。

今、隣で書いているのは、度肝を抜かれるほどきれいな女性の仲間だ。薄茶と白の混じったシルクのふんわりしたシャツに、白いクロップパンツを合わせている。明るい茶に染めたショートカット。アクセサリーのないむき出しの首筋と耳が彼女の美しさを引き立てている。
窓の外には、同じビルの別棟の壁が見える。大きなスクリーンが貼り付いていて、誰もが知っているシンガーが、赤いストッキングの脚を踊らせて、声なき歌を歌っている。逆だったらいいのにと思う。便せんに書いている女性が、隣に存在するのではなくて、スクリーンのなかの人だったら、堂々と、心ゆくまで、その姿を見つめていられるのに。ブルガリの腕時計。いつかわたしにも買えるかしら。キモノ・スタイルのブラウスに白いパンツ。わたしにも似合うかしら。さっそく髪を染めてみよう。ときにはアクセサリーをつけるのをやめてみよう。度肝を抜かれる美しさに少しでも近づきたい、そんな願いで心をそわそわさせながら、真似できるものを集めようとする。盗み見る一瞬のうちに最大限の情報をつかもうとする。

彼女は、空いた椅子にバッグを置いている。やわらかい、白い皮革のショルダーで、ハードカバーの本が一冊と青いプラスチックのペンケースの頭が見えた。そして今彼女が、便せんの四枚目か五枚目の終わりのほうを書いていて、ぎっしり詰まった文字が、たいへんに整然としているのが見て取れた。頬のふくらみ具合で、それほど若くはないのかもしれないと思った。わたしより上、もしかしたら四十代、あるいは四十代の半ばを過ぎているかもしれない。
いったい何を書いてるんだろう。こんなにもリズミカルに、乱れのない文字で、一度も止まることなく。レモンの浮いたアイスティのグラスに手を伸ばすこともなく。便せんなのだから、誰かに宛てて書いているのに違いない。誰に? 何を? 好奇心を募らせながら、わたしは手持ち無沙汰に携帯のボタンをプッシュする。受信メールボックスには、木村の名前がずらりと並ぶ。その間に実家の母と、アロマテラピーを習っている仲間と、娘の名がある。夫からの記録も一通だけ残っている。読まなくてもわかる。「買ってくもののリスト、もう一回送ってくれる?」という、わたしを激怒させた一か月前のものだ。買い物を頼んで、4回「忘れた、リストなくした」と言われたあとのメールだった。

最新のものから読んでいく。どれも木村だ。「ヒルズのいつものカフェで六時に」「日曜、時間作れるんだけど?」「シルク・ドゥ・ソレイユの切符がとれた。十五日、なんとか都合つけられないかな」「たまには目先を変えて野球観戦なんて、どう?」「そうだよな。テレビに映っちゃったらまずいしな」「昨夜は大丈夫だった? 午前様にはならないように次から気をつけよう」「そりゃあ眠いけどさ。やってますよ、仕事ばりばり」これが、最近わたしが受け取る手紙のすべてだった。わたしにとって手紙とは、携帯電話のメールのやりとりのことだからだ。どれも短い。どうにでもとれる。愛かも。愛ではないかも。やさしさかも。臆病さかも。

誰かに、何かを、一度にたくさん、言わなければならないことは、誰にだってあるはずだ。わたしにも、ある。わたしと木村の間にも、あった。たった五か月の付き合いのなかでも、メールでは伝えられない感情のほとばしりはあった。たとえばシルク・ドゥ・ソレイユを観た帰り道、その切符が、実は最初は奥さんと行くはずのもので、次に会社の若い女の子を誘って断られ、それでわたしにまわってきたものだと知ってしまったときに、わたしはバーのカウンターで、延々と木村を責めた。野球もそうだったんでしょう。ほんとは息子とでも行くはずだったんでしょう。わたしはどうせおこぼれを預かる役目なんでしょう。醜い文句を口にするほど、怒りは増し、とどまるところを知らなかった。
けれども今、この美しい人が、そろそろ一時間も経つというのに、白いサンダルの足先をきちんと揃えて、延々と綴っている言葉が、怒りと責めとみじめさから吹き出しているものと想像するのはむずかしい。
知りたい。見たい。読んでみたい。優等の学生のように姿勢よく、きちんとした文字で綴る大人の女性。ざわついた空間で、ひとり、静かに集中し続ける人。この人から手紙をもらえる幸運な相手はいったい誰?
そう、彼女が書いているのは幸福な手紙にちがいない。怒りや責めでは決してない。つまり、愛の手紙だ。それも、愛している、と訴えるものとは別ものという気がする。愛を訴えるのに、一時間もの言葉が要るとは思えない。

窓の外のスクリーンには、別のミュージシャンが映っている。今度は二人組の男たちだ。声は聞こえないが、何かを訴えている様子をしている。手足が躍動し、顔がゆがみ、何かにあがきながら、悶えながら、しきりに訴えている。たぶん、愛を。苦しみを。
彼女は悶えているのではない。愛の風景のなかで呼吸しているのだ。
きっとそうだ、彼女が書いているのは、その風景のさまざま、その風景の分かち合いだ。相手に押しつけようとしているもの、相手に要求するものはそこになく、ただ相手を、その風景のなかに招き入れる寛容の心があるだけのはず。

ああ、と自分の唇から声が漏れたような感じがした。ああ。ここに秘密があった。美しい人の秘密が。わたしがダサいほんとうの理由が。
わたしにも、分かち合う風景があるだろうか。誰と分かち合うのだろうか。

「セイちゃん・・・」言葉を絞り出そうとすると、意外にも、木村ではなく夫の名が、飛び出してきた。「セイちゃん、わたしは・・・わたしは・・・」
何かが喉でつかえている。震えるそれを、押し出そうとする。「今日、とってもきれいな人を見たの・・・その人は長い手紙を書いていて・・・わたしも、あなたに、長い手紙が書きたいと、思ったの・・・わたしたち、ずいぶん長い間、言葉を交わすということをやっていなかったから・・・」喉もとを、言葉が流れ出したとき、わたしは我知らず立ち上がっていた。伝票を持って、隣の女性に目もくれずに。木村を待たなければという思いも消えて。
わたしには、愛の風景を分かち合う人がいたのだ。だから、今、それをしよう。しなければ。
その確かな気持ちに押されるように、込み合ったエスカレーターの右側を、駆け下りる。ビルの外に出た途端、湿った熱気を抱える夕暮れの通りに、かすかな、初秋の乾いた空気が混じっているのを感じて、わたしは、ひとつ、深いため息をついた。

(初出誌 MY LOHAS 2006年9月号)