43. いのちの力を分かち合う

以下は、大江健三郎著『取り替え子』からの一節です。ある事件が起こって、男の子が高熱を出し、危篤状態に陥っています 。

———お母さん、僕は死ぬのだろうか?
———私は、あなたが死なないと思います。死なないようにねがっています。
———お医者さんが、この子は死ぬだろう、もうどうすることもできない、といわれた。それが聞こえていた。僕は死ぬのだろうと思う。
母は、しばらく黙っていました。それからこう言ったのです。
———もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから、大丈夫。
———・・・けれども、その子どもは、今死んでいく僕とは違う子どもでしょう?
———いいえ、同じですよ、と母は言いました。あなたが、私から生まれて、いままでに見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。それから、今のあなたの知っている言葉を、あたらしいあなたも話すことになるのだから、ふたりの子どもはすっかり同じですよ。

男の子は、「なんだかわからない」と思いましたが、その晩は、「ほんとうに静かな心になって眠ることができ、」「翌朝から回復していった」のでした。
学校に戻ってからの彼は、よく、ひとり考えることがありました。
「今ここにいる自分は、あの熱を出して苦しんでいた子どもが死んだ後、お母さんにもう一度生んでもらった、新しい子どもじゃないだろうか? あの死んだ子どもが見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしたこと、それを全部話してもらって、以前からの記憶のように感じているのじゃないか? そして僕は、その死んだ子どもが使っていた言葉を受け継いで、このように考えたり、話したりしているのじゃないだろうか?」
そして、実は、あらゆる子どもたちは、「大人になることができないで死んだ子どもたちの、見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしたこと、それを全部話してもらって、その子どもたちの替わりに生きているのじゃないだろうか? そして僕らはみんな、その言葉をしっかり自分のものにするために、学校へ来ているのじゃないか?」と考えるのです。

このくだりは、 作品のなかで、主人公が、「なぜ子どもは学校に行かなければならないか」という質問に答えて、ドイツの新聞に寄稿したものとして描かれています。
なぜ子どもは学校で勉強するのか。それは、死んだ子どもたちのすべてを丸ごと学ばなければならないから。そうして、その子どもをすっかり自分のなかで生かすことによって、自分もまた、じゅうぶんに生きることになるから。
この作品が刊行されたのは2000年ですから、ずいぶん前のことになりますが、わたしは、これを読んだとき、子どもに限らず(とはいえ、わたしたちは例外なく、誰かの子どもであるわけですが)全員が、すでにこの世にはいない他の人(=子ども)の心を受け継いで、その人の心に宿っていた光の輝き、つまり、魂の光がこの世界に放射され、広がり、影響を与え、それを目撃していく経験を、そのまま引き受け、続けているということは、確かにそうなのかもしれないと思ったのでした。
ちょうど、聖火のリレーのように、です。
わたしたちは、みな、リレー走者で、与えられた環境や遺伝、気質や社会状況に含まれる豊かな生命の火を、バトンタッチされて生まれてくる、そしてそれをしっかりやり抜き、次の走者にわたす、ということをしているのかもしれないなと。
そして、だから人は、子どもを生もうとし、実際に生みもし、前の走者が身につけたすべての知や美を、その子に継がせるべく、大事に育てようとするのではないかと。あらゆる親は、その任を負っているのではと。
さらには、わたしたち皆が人生でしていることが、そのようなことだとするなら、わたしは、誰もが聖火を絶やさぬよう掲げ持っていることを忘れずにいたい。その火が消えないように、強い風からその人を守り、いたわり、伴走し、共に、魂の火を、生命の火を、愛と情熱の火を守りたい。そんなふうに思い、協力すること、共存することの意味に触れたようにも感じました。
今またそのことを思い出し、『取り替え子』の再読もし、作品中に登場するモーリス・センダックの絵本もまた本棚から出してきたりしたのは、今年、立て続けに“死”を見ているということがあります。身近にも見ているし、遠い国での死も伝わってくるし、報道もされている、それらの“死”のひとつひとつから、何かとてつもなく大きなものを手わたされている、ずっしりとした実感があるからです。バトンを渡した、頼んだよ、と言われている感覚、わたしが今まで受け取り切れていなかったものを、今こそしっかり目を見開いて見るようにと確かめられている感覚、そしてそのような一種の責任を持つことで、生命の力をもらっている感じを持っているからです。さらには、その人たちは、わたしひとりではなく、わたしたち皆にわたしているので、わたしたちは、共に、つまり個々に勝手にではなく、学校で、お互いを目撃し合いながら、その作業をやっていくのだろうと理解できたように思いました。
大きな責任を共に受け取るとは、大きな生命の力を共に分かち合うことだったのです。

(初出誌 Linque Vol.44   発行:国際美容連盟2014年4月)