27.振り子

山あれば谷あり。楽あれば苦あり。
わたしたちの心も、確かにそのとおりで、心は常に、山と谷を、楽と苦を、行ったり来たりしています。振り子のようなものです。落ち着く瞬間があるとすれば、重力に素直に引っ張られて、いちばん下に降りているときですが、一瞬のことなので、ほっと息つく隙もあらばこそ、また振り上がることに気持ちが向いて、心はいつも、忙しいばかりなのです。
振り子のように心が振れる、その力は、他ならぬ、重力、下へ引っ張る力から生まれ、下へ引っ張られて安定する一瞬があるからこそ、振れることができるのだということなどには思い及びません。
子どもたちは、ブランコを一生懸命こぎます。わたしも昔、頭と足が逆さになるほど激しく大胆にこぐのが大好きでした。
二十代のわたしも、似たようなものだったと思います。高い山に登ってみたい、快楽の深さを覗き見たい、と、ブランコを大きく振り上げていました。次に訪れる谷と痛み、そして再び山と楽、その振れが大きいほど、人生を謳歌しているような錯覚を持ちましたが、いつもどこかで物足りなさ、不確かさ、空虚さを感じていたのは、振られている時間が長いほど、いちばん下を通過する瞬間を忘れ去る、つまり力の源から心を引き離していたからなのですね。
振り子は、どうしたって振れてしまいます。
フーコーの振り子は、地球の自転に従って、円を描いて旅します。
でも、いちばん下に降りるときに、ただの、おもしろくもおかしくもない通過点として無視せずに、下のほうへ、ぐうっと引っ張られる力を感じてみようとすると、振り子の振れ方は、小さくなってきます。めくるめく歓喜がない代わりにきりきりとした痛みもなく、しかし、めくるめくものよりもずっと深く確かな喜びが、わかるようになってきます。
それは、何か大きな力に引っ張ってもらい、その力に、片時も見放されずにつながらせてもらっているという安心感に基づいた喜びなのです。
一度それを理解すると、時々びっくりするほど振り子が揺れても、どこかへ吹き飛ばされてしまうことはないとわかっているし、楽があり苦があっても、安定した一点は必ずそこにあり、そこに戻ることができ、そこはわたしを見放さない、ということを忘れないでいられるので、不安になりません。
そして、その力に感謝して、その力を讃えて、その力がうれしくて、それを表現するために振れるようになります。力を無視するためではなく、力を表すために振れる振り子。それがわたしです。それがあなたです。
山も谷も、実は同じものです。
快楽と痛みは、ひとつのものです。
山がなければ谷はないし、痛みがなければ快楽はあり得ないのです。
わたしたちは、同じひとつのものを両極に分けて、別々なものとして見ます。
山があるからこちらは谷だと判断するし、あの人がお金持ちだからわたしは貧しいと思うのだし、彼女と比べればわたしは太っているのです。自分がやっていることが、実は、ひとつのものを、二つに分けて、その一方を自分が引き受け、もう一方を相手に演じさせているだけだということに気持ちを向けていません。
ひとつの極を経験しているとき、一方の極を忘れています。もう過ぎ去ってしまったこと、または、まだ見ぬ憧れ、ととらえます。あの苦しみにはもう戻りたくない、とも思います。でも、わたしたちの人生は、どこにも留まるということがありません。風景は移り変わり、山にも谷にも戻ってきます。
何のために?
山も、谷も、同じこと。楽も苦も、同じこと。どちらも自分じゃない。そのことを理解するためです。
わたしは、長い間、自分が振り子なのだと思っていました。振り子には、振る力はなく、自分よりずっと強い力が、わたしという玉をいろいろに遊ばせているのだと信じていました。
それは勘違いでした。わたしは、振られている玉ではなく、わたしこそが、振り子を、自由に振っている存在なのでした。ブランコから降りて、ブランコに揺られている自分の体を見てみよう、と思ってください。見えるでしょう。驚喜したり落ち込んだりしている心が観察できるでしょう。今、それを見ている自分がほんとうの自分です。見ている場所が、自分の居場所です。
そのように自分をとらえるとき、劇的な変化を経験します。
自分が振り子そのものだと思っているときは、宙に振り上がっていくとのスリルこそが人生の醍醐味、同時に恐怖であり、振り上がったその先が、人生のクライマックス、また惨事と感じますが、振り子を振っているのが自分だとわかると、どのように振り子が振られようと、必ず、下に引っ張られて降りてくること、どちらにも振られていない、安定した一点が、常に振り子を待っていてくれることがよく見えて、その一点をこそ、振り子にとっての幸福、安心、安定、エクスタシー、と、受け取るようになるのです。
良きことは良くないことの裏返し。痛みは快楽のもうひとつの姿。そのどちらでもない安定した瞬間は、誰にでも平等に与えられています。そのことを覚えておくと、どちらにどのように振り子が振られようと、大騒ぎをする必要はなくなるのです。あたふたとする理由が消えるのです。そして、振り子を降り続けることが、恐怖の裏返しではない、安心に裏打ちされた喜びと感じられ、生きるということを静かに、全面的に、受け入れられるようになってくるのです。自由自在に振ってみたいです。時に大胆に、時につつましく。いろいろに振ってみたいです。感謝と喜びの心で。

(初出誌 Linque Vol.28 発行:国際美容連盟2010年4月)