「やっぱりニューヨークがいいなあ」と、しみじみ呟く人に、立て続けに会いました。

そのうちのお一人は、日本人です。電車とプラットフォームの間に落ちて、片足と片目を失いました。「失ったものが、二つあるものでよかった!」と輝く笑顔でおっしゃるKayさんは、スポーツジムでパーソナル・トレーナーをしていました。そして、今も、です。ただし、日本のスポーツ・クラブではなかなか雇ってもらえないそうです。リハビリ後「あなたはどうしたい? トレーナー続けますか?」と尋ねたのは、米軍基地内のジムだけだったそうです。

ニューヨーク? こちらではもちろん、対等の扱いです。義足もあり、片目はよく見えるし、実を言うと、Kayさんが事故に遭った方だとは、一見では誰も気づかない機動力を持っていらっしゃるのですが、彼女は、「車椅子の人でも、盲目の人でも、誰でも対等にやりたい日常を送るのは当然、という思いが徹底しているニューヨークが大好き」と言います。確かに、バリヤフリーの街づくりは、日本よりずっと以前から始まっていて、日本も今、ニューヨーク流に追いつこうとしていると思うのですが、Kayさんの言葉を聞いて、システムを変えても同じにはならないということを、改めて思いました。

バリヤフリーとは、高齢者や“障害者”に「親切にする」ことではなく、一人一人が心のバリヤを外すことです。それは、ひとことで言えば、甘えない、ということなのだと思います。

例えば、バスは定刻通りに来て欲しい。これは誰もが願うことです。そのバスは、時刻ぴったりに来るかもしれないし、遅れるかもしれません(ニューヨークのバスは大抵遅れます)。そしてそのバスには3人の車椅子の人が乗車を待っているかもしれません(ニューヨークでは珍しくないのです。各停留所で、車いすや杖の方のためのリフトが出されることもあります。運転手さんが席を立って、その人のための席を作ります)。当然、バスはどんどん遅れていきます。そんな時「いやになっちゃうなあ。困ったなあ。これでは遅れてしまう。そうでなくても渋滞なのに」といった思いが生まれるかもしれません。「車椅子なら、せめてラッシュアワーを避けてくれればいいのに」とも思うかもしれません。

その思いは、「甘え」です。

「お金を払っているのだから、時間通りに運行して欲しい」「なぜわたしがこの人たちのために遅刻しなければならないの」という思いは、「ちゃんとしているわたしに、ちゃんとサービスしてよね」という主張があり、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、世界は「ちゃんとしている自分にそれだけの敬意を表しサービスを提供する義務がある」という信念に基づいています。この、一見勇ましく堂々とした信念がなぜ甘えなのかというと、「ちゃんとしている自分」という自分像は、独りよがりの思い込みに過ぎないからです。
実は、自分は、“別にちゃんとしていない”ので、世界が自分に跪く理由はどこにもないのです。そのような思い込みを持っていると、例えば、自分が事故に遭い足を失ったとき、または高齢に達したとき、「わたしはちゃんとしていないから、社会に迷惑をかけている。外に出て嫌がられたくない」と思うようになるでしょう。どちらも、自分の勝手な思い込みで社会に文句をつけたり恨んだり、そうでなければ自分を責めたり蔑んだりしています。これが、「甘え」です。

人生は、自分の思い込みとはまったく違ったレベルで動いています。それは、ひとことで言えば、協力、ということでしょうか。

人と人は、どの瞬間にも、協力して人生を共に動かしています。バス会社と運転手と乗客は、それぞれが協力して今日一日を創造し、いたわり合い、励まし合い、持てるものを与え合っています。自分の都合を脇に置き、その人が無事にバスに乗れるよう協力することそれ自体が、その日の活力になるのです。誰かの、または自分の「ありがとう」「お願いします」が自分の生命力を盛んにさせるのです。そのような協力に参加することが喜びだし、また、それが、例えばニューヨークでバスに乗るということなのです。

わたしと社会、わたしとあなた、わたしとバスの運行状況、といった対立関係は存在していないのに、それがあると思い込み、そこで権利を主張しようとする姿勢は、甘えた子供です。

わたし自身、担当者がだらだらしていてなかなか動かない列に並んだり、電話会社のいい加減な仕事のトバッチリを受けたりして、自分の中に甘えた主張が噴き出す経験を、ずいぶん重ねてきました。その年月で、甘えたままにしておくのではなく、一緒に「良かった!」「ありがとう!」「良い1日をね!」と笑顔を交わせるよう、その時々、心を使う練習をさせてもらって来ました。それは楽しい練習です。練習するたび、ニューヨークの一員、という実感も増します。つまり、ニューヨークという生命体に参加している、その一部になっているという感覚で生きるようになります。

Kayさんは、ニューヨークで生きていきたいと願っていらっしゃいます。昨日会ったブラジル人も、スェーデン人も、同じ願いを持っていました。でもニューヨークは“親切に”手を差し伸べてはくれません。代わりに、「あなたのその願いをしっかり見せてください。喜んで協力させてもらいますから」という対等の姿勢があるばかりです。対等な関係の中では、自分の未熟さや考えの狭さを思い知らされることが多々あります。自分は決してちゃんとなどしていないのです。そしてそれでも、社会は、人は、自分が手を差し出すのを待っていて、その手を取ってくれるのです。

ニューヨークには天使がいっぱい、と言う人も少なからずいますが、天使が現れるのは(人が皆天使に見えるのは)対等さを受け入れる時だけなのです。

( 初出誌 Linque Vol. 58 発行 : 国際美容連盟 2017年10月 )