51. 直観を磨くということ

「同じ親なのに兄弟(姉妹)でこんなにも違う」

「同じように育てたつもりなのに、この子たちはこんなにも違う」

「兄弟(姉妹)とはとても思えないかけ離れた人格、人生の二人」

ということが、どこにでもあります。そっくりな兄弟姉妹のほうが珍しいかもしれません。容姿が違う、得意な学科が違う、というようなことがあり、やがて成人してのちは、何につけ、意見、感じ方、ものの見方、生活のしかた、経済レベル、健康度、 さまざまなことがさらに遠く隔たっていく、ということもあります。

そして同時に、「やはり似ている」「どこか似ている」「根本的に似ている」と自他ともに認める、ということもあるわけです。

神様もまた、その子どもたちであるわたしたちを見て、

「同じように創造したはずなのに、、、」

と、思っていらっしゃるかもしれないね、と先日、友人とのおしゃべりが、そんなふうに進みました。

見かけも、好きな人も、好きなものも、あらゆることが違っているわたしたちは、でも実は、同じ親(神)に創造された兄弟姉妹であり、その親(神)の恵みを等しく受け取り、「愛されて生まれた」「ずっと愛されてきた」「こんなにも大事にされている」と知っているところが、心のなかにあるのではないかと。

わたしたちは、あらゆるメディアを通して、無数の情報を共有していると錯覚しがちですが、温度の感知のしかたも、色の識別も、五感のあらゆる範囲に、人種、遺伝、風土、時代、文化の背景などの影響が及んでいます。

それはたとえば、とにかく小さい場所に世界中の人がひしめきあっているマンハッタンにいると、よくわかります。人とのコミュニケーション、人との共存、人との関係は、それら、五感を超えた心の部分だけを見て、そこだけを頼るしかない、とはっきりしているのです。

ニューヨークの、マンハッタン島は、「絶対に自分と似た人は存在しない」という信念を前提として生きている人しかいないようなところです。

人生で経験することも、感じることも、見かけも、好きな人も、好きなものも、食べるものも、信じる神も、心の傷も、幸福な思い出も、何もかも違う人の集合体に身を置いて、二人として存在しないこの自分とはこのような人間だ、と主張するべく切磋琢磨する人たちが、ニューヨークを面白い街にしています。けれども、そのように成功している人たちも含め、結局は誰もが、まずとにかくいっさいが違うのだ、ということを潔く受け入れ、それでも必ずそこに存在する、誰もが共有している見えない部分、確かにここだけはつながっていると感じられる部分のみを心のアンテナでとらえながら、その、とらえたものだけを足がかりとして、世界各国から集まってきた大勢の人間が共存しています 。

その意味で、ニューヨークは、若さと成熟の混じり合う、大人の街なのです。

自分の思い、自分の常識、自分の知覚が人と同じとは思わないほうがいいのです。なぜなら、そう思っても、同じことはあり得ないから。

言葉は最大公約数なので、「愛してる」とお互いに言えば、まあ、いいことにしようということになりますが、熱烈な恋愛中のふたりなら、「もっとちゃんと言って」「愛してるってどんなふうに?」「愛しているならそうはしないでしょう」というように攻め込んでいくこともあるでしょう。そこには、相手の「愛してる」と自分の「愛してる」は違うのではないか、ずれがあるのではないかという”当然の疑い“が存在しています。

ずれは、あるのです。その愛は同じではないのです。

けれども、どこかに、目に見えない心の奥に、寸分違わぬ同じ場所があり、それがふたりを出会わせ、つなげている、という直観は、あるのだと思うのです。

その直観は、かすかなものかもしれません。または、まったく気づいていないものかもしれません。さらには、気づくより前に意識が否定していることもあるのかもしれません。

「愛してる」と言い合う仲の相手とだけではなく、「苦手だな」と感じる相手との間にも、その場所、共有する場所はあるはずです。それも直観がとらえてしまうから、余計に、「イヤだ」と思うのかもしれません。「この人と共有しているものがあるなんて認めたくない」と。

この、「愛してる」人にも「苦手な」人にも、どこかで感じてしまう直観は、人生の根幹を支える大事なものであり、かつ、奇妙なことに、もっとも直視を避けようとしてしまう部分でもあるようです。

それは、心のなかの、ほんとうのことを覚えている部分、自分自身についての真実を知っている部分です。それはまた、誰もが持っている部分であり、その部分を満たしているものは、実は誰もが同じである、という部分です。つまり、個性のない部分なのです。

誰もが同じであり、どこにも優劣も過不足もなく、したがって、自分にも相手にも、特別なものを見出すことのできない場所。その場所こそが、人と人とをつなげ、共存させている、つまりわたしたち全員を生かしている生命の源だとしたら、、、。

かすかな直観は正しいことになるし、その直観を信じたくないと思う気持ちも理解できるし(自分に特別なものがないと認めることになるのですから)、その上で、改めて、その直観を受け入れるしかないと覚悟を決めると、直観力は高まります。そして、直観を、迷いなく、ためらいなく受け取ることができるなら、ただちに、その直観が伝えてくれるものが何かをいうことも受け取ることになります。すなわち、誰もが、心のなかに、「わたしはこんなにも愛されている」と知っているところがあるということを、です。

そんなはずはない、という信念が拭いきれないとき、その発見は、奇跡という形で姿を表すことになるでしょう。

( 初出誌 Linque Vol.52 発行:国際美容連盟2016年4月 )