7.ブライトンビーチにて

夏の終わりの乾いた風が、海原をわたり、砂浜を撫で、ボードウォークを過ぎ、そしてこの、ビーチに面して並べられ、パラソルに守られた、レストランのテーブルに、届く。ヘルメットを脱いでまもない髪と地肌に、たっぷりとした空気が送り込まれる。

サングラス越しにも、海原は明るくきらめいて映る。夏の間、大勢の老若男女を迎えたビーチは、今やっと彼らから解放され、くったりと、すべてを大空の下に晒している。裸眼で眺めるには、あまりに無防備でしどけない感じがする。

わたしのテーブルにウォッカ・トニックを置いていった顔見知りのウエイターが、トレイを片手にそのままボードウォークに歩いていき、チップスをちぎっては宙に放るのを眺める。大小のかもめが羽根を大きく広げ、たちまち彼の周囲に集まる。

オートバイはビーチの裏手の、いつもの場所に停めてある。

マンハッタンからこのビーチまで、わたしは、たいてい、ウィリアムズバーグ橋を通ってくる。幅広の、がっしりした吊り橋で、あっという間に渡ってしまうけれど、イーストリバーでは観光船がしぶきを立て、ミラーには、ウォールストリートのビル群が映り、車道の隣には歩道が通っていて、自転車が走り抜けてゆき、また、すぐ斜め下を、地下鉄が通って路面を振動させている、その賑やかさを通り抜けると同時にマンハッタン島からブルックリン側へ渡れるのが楽しくも清々しい。

橋を渡り終えると同時にミラーの中の高層ビルはたちまち消え、ゆるいカーブに入って行く。コニーアイランドを示す標識に従ってハイウェイを海沿いに向かうと、まもなく、観覧車やジェットコースターのシルエットが見えてくる。

朝日に照らされた木製ジェットコースターの黄味がかった木肌の艶を何度見ただろう。月夜、観覧車がシャープなメタリックな光を見せていたこともあった。雪を戴いた姿も目撃した。わたしは観覧車の24時間と、春夏を三回、秋冬を二回、見たことになる。

その観覧車を越えて、コニーアイランドのお隣がブライトンビーチ。このロシア料理店の茄子のキャビアや豚の足の味を知ってからも、ちょうど三年近く経ったのか。

ニューヨークに住み始めてまもなく、ここにオートバイで通い出した時、東京にいたときと同じことをやっている、と、自分で笑っていた。

かつて、わたしは第三京浜で多摩川を渡り、“東京脱出を計る”のが好きだった。そのまま横浜に出て、コーヒーを飲み、引き返すこともあったが、時間が許すなら、横浜横須賀道路あるいは国道一号線経由で湘南の海岸に出、江ノ島を左に茅ヶ崎あたりまで走った。仕事の終わる金曜の深夜が多かった。

女ともだちと待ち合わせたこともある。同じアパレル業界の別会社に勤めていて、それぞれいつも山積みの仕事を抱えていた。別々のオフィスビルで徹夜をした土曜の早朝に、彼女は赤いBMWで、わたしはオートバイで、江ノ島マクドナルドで落ち合い、彼女は紅茶とパンケーキ、わたしはビールとトースト、夜食とも朝食ともつかないものを食べながら、ニューヨークの、名の通ったファッション・スクールに行くことを決めたと、彼女に打ち明けたのだった。

「キャリア・アップのための投資か。思いきったわね」

そういうわけでもないのよ、と、わたしは答えたはずだ。当時の生活にストレスまたは不完全燃焼感があったのか、やめたいこと、始めたいこと、身につけたい特別な技術や資格があったのか、未来の人生像を抱いていたか、等々のことは、当時も、今振り返ってみても、ただ混沌として曖昧で、輪郭のはっきりした考えやイメージなどというものは見当たらない。ただ、キャリア・アップのための留学、というのは、建前に過ぎないとは言えないまでも、それが目的かと自分の心に問うならば、そうとは言えないし、また、思いきって、勇気を奮っての挑戦かと尋ねられても、うなずくことはできない、ということだけが確かなのだった。

「というより、生きていく糧のため、というか」

自分で言いながら、生きていく糧とは何だろうと、考えていた。それは心を養う糧のことだろう、豊かさやオープンさ、自由自在、刻一刻、創造されていく何かだろう、心が感じる風のことだろう、などと、朝焼けを背にした江ノ島のシルエットを眺めながら、思ったことを、鮮やかに覚えている。

生きていく糧とは、生きる原動力のことだ。そして原動力とは生きる目的と同義語だ。ニューヨークに越してまもなく、オートバイを手に入れ、ブライトンビーチに通い始めて、その意味が少しずつ明らかになってくるように感じた。学校で学ぶことが力の源ではなく、ここに通うことで得る力を使って、学校の厳しいカリキュラムに耐えたのだ。

わたしはここに、好きな人に会うために通っている。

その人とは、この海で、深夜、こっそり、裸で泳いだ。このレストランで、数えきれないほどの食事をした。そしてその人は、わたしの卒業を待っていたかのように、わたしにプロポーズをしたのだ。

その人は、わたしが通う学校の絵画クラスの教師だった。教えながら、描いていた。わたしが卒業するまでの三年の間に、作品が急に売れ出し、あれよというまにニューヨークタイムスにも紹介されるまでになった。ちょうどブライトンビーチ沿いの地域が開発され、高級コンドミニアムが立ち並んで注目を浴び始めていて、彼はそのペントハウスを買ったのだった。

三年間、わたしたちは何を共有してきただろう。何に対して手を差し伸べ合ってきただろう。

彼には、成功し続けるというプレッシャーの他、市民権の申請や画廊との契約における弁護士とのトラブルなどがあり、わたしにもヴィザのことや、卒業制作や、アパートの契約のこと、そしてフランス資本のデパートメントストアへの就職等々、たくさんのことがあった。けれども、そういう事柄は、やはり、当時も今も、混沌とし曖昧で、頼りにできるような確かな手応えはどこにも感じられない。わたしにとっての生きる糧は、原動力は、むしろ日々の生活には不要なもの、たとえば彼に会いに来るためにオートバイで橋を渡る時間であり、夜の海に浮かぶ彼の頬が月に照らされて輝く瞬間を目撃することであり、このビーチ沿いに並んだテーブルで、彼と一緒にかもめの姿を追うひとときなのだった。

わたしは、今、彼と結婚することを選ばないだろうと思う。共に暮らす提案も断るだろう。わたしの心に存在する確かなものは、予測しがたく、説明しがたく、生活の役にも立たないものだが、それこそが生きる糧、原動力とあってみれば、それを自分で断ち切ること、ねじ曲げることはとてもできない。その力は、力自らが、成長し、変態を遂げるのでなければならない。わたしの心は、その力の容れ物なのだ。ならば、その力を自在に遊ばせてやることを大事にしていなくては。どんなにそれが魅力的な誘惑に見え、それに逆らうことが理屈に合わず、あるいはただの我が侭や気まぐれに思えるにしても。

しかし、彼にはどう伝えよう。生きていく糧を大事にしたい、などという言葉は、プロポーズを断る理由として、通じるものだろうか。

いいえ、ここでひるんではだめだ。わたしの心の糧は、彼の不在では育ててこられなかったのだから、彼にはどうしてもわかってもらわなければならない。わかってもらえるものでなければ、わたしのひとりよがりに過ぎないのであるなら、それはもはや大事な糧とはとても言えない。

彼の姿が、サングラス越しに、現れた。お洒落なシャツに帽子をかぶり、長い脚を短パンから伸ばして、砂浜を歩いてくる。

わたしが彼を、心から締め出しませんように。彼に、真摯に向き合えますように。そんな祈りとともに、ゆっくりサングラスを外す。

その瞬間、まばゆい光が視界を満たし、きらめく海面も、しどけない砂浜も、自転車の行くボードウォークも、そして、彼の赤と茶の幾何学模様のシャツも、パナマ帽も、彼のシルエット全体も、その光のなかに沈んで消えた。

わたしは、まぶしさのあまり、目をつむりそうになるのを堪え、光の海に、自分を投げ入れる。

 

 

ロシア・レストラン Tatiana  

3152
Brighton 6th street, Brooklyn, NY 718-891-5151

ロシア系人の多いブライトンビーチが誇る有名店。夏場はビーチ側の戸外にテーブルが並び、たいへんに込み合います。ロシア系ユダヤ人の友人が最近ここで誕生パーティを開き、久しぶりに本場ロシア料理と美味しいワインを堪能しました。(筆者)

 

(初出 コンパスポイント 10/2010)