愛について 9

2001年9月16日、大きな事件から五日後の深夜、その現場を訪ねる機会を得ました。 事件直後にダウンタウン全域を覆い尽くした有毒物質の塵が薄らぎ、けれどもキャナル・ストリートより南の区域は、まだ息をするのが苦しくなるような匂いが立ちこめていた頃です。 シティ・ホールのすぐ近くから、いくつも検問所を通り、何種類ものボランティアのブースや、簡易動物救急ブースなどの間を通り、無惨な姿に残った建物に囲まれた、ビルの残骸の“原野”にたどり着きました。
その原野は、巨大な映画撮影のセットのごとくいくつもの光度の高いライトに煌々と照らされていました。残骸は、きらきら、またはぬめぬめと光っています。 ところどころ、地の底から煙が立ち上っている箇所があり、ライトがその細い煙が周囲に残ったビルより高く、伸びていくのを映し出していました。
そこで何が行われていたかというと、人を乗せたクレーンをゆっくりと動かし、下ろしていって、残骸の隙間から地下深くにレーダーを垂らしていく。 生きている人がそこにいれば、レーダーに反応が出る。出なければ、ゆっくりクレーンを上げていき、位置を少しずらし、またゆっくり下ろしていき、レーダーを垂らす。その繰り返しです。 非常にまどろっこしい、のろのろとした作業で、生存者の有無を確かめていました。
生存者は、ひとりも、いない。
これが、わたしのはっきりした感想でした。
なぜならば、その原野が、<あまりにも平和なエネルギーに満たされていた>からです。
世界中のあちこちにある、強く神聖なエネルギーの場所のいくつかを訪ねたこともありますが、このトライベッカに出現した原野に比する密度のエネルギーを感じたことは、あとにも先にもありません。
「ああ、このエネルギーは、つい今しがた自由になった魂たちだ」 と、感じました。 「なんて優美で、強くて、気高いのだろう」 と、息を飲まずにいられませんでした。 そしてそれは、平和そのものだったのです。あまりにも平和だったのです。 だからわたしは、まだ生きて苦しんでいる者はここには皆無だとわかったのです。 (実際には、生き残った猫が一匹いましたが。三日目に雨が降り、残骸の山の底に水たまりができたため、その水で生き延びたと聞きました。)
身体から離れた魂は、これほどまっすぐに、純粋な原型へと、平和というエネルギーへと舞い戻っていくのかと、これがわたしたちの真の姿なのかと、今でも振り返るたび、手を合わせたくなるような敬虔な思いがあふれます。そしてこの思いは、わたしの宇宙観、死生観を支えてくれるいちばんの柱になっています。

身体から離れた魂は、このように平和そのものに戻っていくと、わたしは言い切ってみるわけですが、では、残された者たちの苦悶はどうでしょうか。
9・11 の後、さまざまな形でその苦悶に直面する方々と、直に、または間接的に接して感じたことは、ひとりひとりが、実に偉大な、苦悶する忍耐というか、苦に堪える力を持っている、ということでした。 言い換えれば、快復の力ということです。 人間は、苦しみに直面し、そこから快復するときに、見事な力を発揮するということです。 深い苦しみ、痛みを経験したあとに、内側から今までになかった不思議な力が湧いてくるのを感じたことが、わたしにもあります。 不思議な、というのは、新鮮な感じもあり、なつかしい感じもある、というようなニュアンスで言っているのですが。
そしてその感覚は、完全な快復を目指していながら、同時に、ここにぐずぐずと留まっていたいという思いも含んでいる、その意味で不思議だとも言っているのですが。

自我が消え、愛が現れるための装置としての身体、時間(過去)ということを前回お話しました。
これは、逆に言うと、身体、時間(過去)という装置がここにある限り、わたしたちは、常に、愛に向かうプロセスを辿っていなければならないということになります。 または、愛から自我へ、自我から愛へと、振幅を繰り返しながら生きて行くということになります。
装置に含まれるものとして、性愛をあげましたが、オーガズムが終わればまた自我に戻り、という繰り返しを飽きもせず、めげもせず、延々と続けていくなんて、ずいぶん愚かしい行為にも見えますね。 こんな滑稽さからはできるだけ遠ざかっていたいという気持ちがあるのも本音ではないでしょうか。
この、滑稽にも飽かず繰り返される性行為を、自我から愛へ向かうプロセスの反復運動としてみるならば、生殖を目指すのではない性行為とは、癒しにほかならないということになります。  癒し、あるいは、快復のためのプロセスです。
大きな病気をする、または深い心の痛手を負う経験、打撃のあとの快復期には、それはパワフルな、勢いのある力が際限なく生まれてくる感じを持つものです。 この、強い浄化力のある快復途上のエネルギーを得るためにのみ、打撃を経験している、と言いたくなるほどです。 それは、必ずしも、さあこれから健康になるぞ! という元気さとは違うかもしれません。快復できないのではないかという不安、再度どん底に落とされるのではという恐れ、世界を二度と信頼できないかもしれない、もう誰も愛せないかもしれない、もはや自分を信じられない、といった絶望などを合わせ持った、グレイッシュな心の風景があって、白黒はっきりできない状況が、快復期の特徴のひとつのような気がします。 そして、だからこそ、はっきりしないからこそ、深い場所から力が湧き出すのを感じるのだと思えるのです。 白黒ではなく、善悪ではなく、ポジティブ/ネガティブでもない、絶望と希望のどちらをも丸々内包した状態だからこそ生まれる力、まるで、新たに発見された温泉のような温かさと勢いのある力を。
すっかり快復してしまったら、この力は消えてしまうのではないか。どんよりとした、弛緩した空気に戻ってしまうのではないか。 そんな恐れが意識の底にあるので、人は快復期に愛着を持つし、ふたたび快復に先立つ痛みに自ら飛び込んでいくのかもしれません。

コンクリートで固められたグラウンド・ゼロを訪ねた人たちは、皆、悲惨な、無惨なエネルギーを感じたと言っていましたが、わたし自身は、五日目の原野の印象と同様、やはり絶対的な平和をいつも感じていました。 喉が締めつけられるような重いエネルギーは、死者からではなく、訪れる人たちから、残された者たちから発せられているものだと受け取りました。
死者は平和そのものとなる。残された者は快復の力を与えられる。
これは、楽観主義のものの見方ではなく、わたし自身が経験した事実であり、快復期にある者としての責任の問題です。  9・11 の後、わたしたちは、じゅうぶんに快復の力を使えたでしょうか。  今までの人生のいくつかの困難を、誠実に乗り越えるべく、快復してきたでしょうか。
このように自問するとき、今、自分が何に心を集中させたらいいのか、答えが浮かび上がってくるように思います。 困難、事故、悲嘆そのものを見つめるやり方を止めて、快復してゆく心とともに生きることが、ほんとうに自分を癒すことになるのだという気がします。 そして、快復期をじゅうぶんに生き抜くことで、飽かず繰り返してきた自我と愛/打撃と癒しの間の反復運動が、やさしく、次なる地平へシフトしていくように感じます。

二十代に入ってまもなくの誕生日、好きだった人が、飯島耕一氏の詩集をプレゼントしてくれたことがありました。その詩の言葉が心の底に降りてきて、ほんとうに理解できたのは、そしてその詩に救われた、助けられたと、心底ありがたいと感じたのは、三十代に入りさらに数年経ってからのことでした。  長編の詩から抜粋します。

何にも興味をもたなかったきみが  ある日  ゴヤのファーストネームが知りたくて  隣の部屋まで駆けていた。
−−−−中略−−−−
生きるとは  ゴヤのファーストネームを知りたいと思うことだ。
ゴヤのロス・カプリチョスや 「聾の家」を  見たいと思うことだ。
見ることを拒否する病いから 一歩一歩癒えていく、 この感覚だ。

わたしは、生きる意味、目的というのがあるとしたら、それはこの感覚のことなのだと思うことを何度か繰り返してきました。 癒える感覚とともにあるとき、それを、どのように分かち合っていけるかということがテーマだったようにも思えるし、それはそのまま、どのように愛を伝えるかということと同じだとも感じています。快復、癒し、愛、これはきっと同じ意味の言葉なのです。 「打ちのめされる者は幸いなり」 こんなフレーズが何かの宗教書にあるかどうかわかりませんが、そんな言葉を受けとめて生きようとする心が愛を運ぶことは確実に思えます。

(追記:このように書きながら、ゴヤのフルネームを未だに知らないことに気づきました。急いで調べました。フランシスコ・デ・ゴヤです:)