愛について 8

わたしは身体ではない。 ならば性愛とは何か。 これが今回のテーマです。
先日ミュージック・ストアにいたときに、店内のスピーカーからブルース・スプリングスティーンの声が聞こえてきました。泣きたくなるほど繊細なアコースティック・ギターと優しいバック・コーラスに惹かれて、つい耳をそばだてました。
宇宙の魂を思い出して。 ただひたすらそれを意志して。 意志を持つなら、必ず、その魂は現れるから。
いつものスプリングスティーンの口調とだいぶ違うようなのが訝しく、リリースされたばかりのCDを手にとると、それはイエスとマリアの愛の歌と書かれていました。さっそくCDを聴いてみました。上記のフレーズは、イエスがマリアを慰めている、またはやさしく教えている箇所のようでした。 さらに驚かされたのは、同じアルバムには、かつての恋人に似た娼婦を買う男の話を歌ったものもあるのです。 イエスの魂の歌と”買春”の歌を並べたアルバムを作るなんて、何か大きな変化がこの人にあったのかしらとますます興味が湧きました。
彼が、インタビューに答えて、こう語っているのを見つけました。
「身体を持っている限り、セックスは重要な課題だよ。カジュアル・セックスは、興奮するし、ものすごい解放になる。かんたんにエクスタシー導いてくれる。 なぜって、そういうセックスは、自分という本を閉じるものだから。逆に、ほんとうに愛している人とのセックスは、自分という本を開くものなので、いつだってリスキーだし、ものすごく怖いはずだ」

『奇跡講座』にも同様のことが記されています。
相手を身体として見るとき、あなたは相手をまるで見ていないのである。相手の身体を使って、自分の見たいものを見ているつもりになっているだけだ。 そして、相手の身体を使って自分の幻想にひたっているあなたにとって、相手のほんとうの姿は、現れてほしくない、邪魔なものでしかないのである。

相手を身体として見るとは、どういうことでしょうか。スプリングスティーンの言葉を借りれば、カジュアル・セックスということになります。
カジュアル・セックス。それは、見知らぬ他人との、よく知らない人との、「自分とはずいぶん違う」人とのセックスのこと、さらには、自分で作り上げたイメージとするセックス、とも言えるような気がします。
この人は自分にないものを持っているとか、この人は自分とは全然違う考え方をするとか、あるいはもっと単純に、会ったことのないタイプだとか、そんな理由が、恋に堕ちる大きな要素になることがありますよね。 わたし自身も、 若いときには、異質なもの、珍しいものに惹かれる傾向が多分にあったような気がします。でもそれは、相手を未知の存在、非知の存在として見ているということですから、カジュアル・セックスと同じなんですね。

こういうことも言えます。わたしたちは、たいていの場合、会話のなかで、親しくなっていきますが、わたしはこういう人、あなたはどんな人? とおしゃべりが進むなかで、お互いの違いを面白がったり、共通点を喜んだりするうち、もっとこの人を知りたい、もっと自分を知ってほしい、という欲望が生まれます。 でも、ここには、多大な勘違いの可能性がありますね? ああ、この人はこういう人なんだ、と思うとき、そこには、かなりの部分、こういう人であってほしい、こういう人ではないか、という自分の思い込み、経験からの判断、期待、等々が入っているだろうからです。 かつての恋人に容貌がそっくりな人にぐらりと心が傾くというのもそういう心理のひとつでしょう。ということは、この場合も、カジュアル・セックスということになります。
カジュアル・セックス=異質なものとのセックス。だとしたら、ほとんどすべてのセックスはカジュアルということになります。誰もが、最初は、相手をよく知らず、お互いに思い込みを背負っているのですから。
その意味で、わたしは、よく口にされる、愛のないセックス、愛のあるセックス、遊び、本気、等々の区別は存在しないと思っています。どんな始まりも、似たり寄ったり。 怖い反面大きな期待があり。未知を探る、胸躍る感覚があり。やっと触れたという感動も重なり、わくわく、どきどきの瞬間です。ただ、そのふたりの触れ合いを、愛の発見にできるか、快楽と痛みにとどまって終わるか、その違いがあるのだと思います。
自分という本を閉じる。スプリングスティーンは快楽と痛みを、そのように説明しています。ほんとうの自分を出さないで、つまり、自分は自分、あなたはあなた、とふたりを分離しておいて、身体が受け止めるセンセーションだけに集中すれば、安心してひりひりした快楽/痛みに耽溺できる、と言っているのです。
けれども、自分という本を開くなら、つまり、自分をコントロールしようとせず、自分のいかなる部分も隠そうとせずに、あるいは隠したいという理性を放棄して、ひたすら自分を差し出していくならば、それは、どの瞬間も、勇気と信頼と正直さを要求される「試される時間」になるだろうと言っているのです。

わたしはこんな人、あなたはどんな人? を脇に置いて、今、ここにある瞬間に、全身全霊を傾ける。触れ合いながら、何が起こるか、ふたりして、じっと見る。自分が相手をどう見るか、相手が自分をどう見るか、というようなことに意識の向く自我を忘れて、ふたりの「間で」起こっていること、ふたりの間にある肌や骨や唇や、さまざまな曲線が奏でる音に、ふたりで耳を傾ける。 その、瞑想にも似た集中を続けるうち、自我は薄い雲のようにどんどん遠くに流れていって、さらに、大きな波が何度もやってきては、しつこく心にへばりついている塵やら何やらを洗い流していき、その、洗い清められたまっさらなお互いの顔を見つけて、驚き合うのです。相手の顔に、まさしく自分自身を見るから。 自分の名前も相手の名前も忘れて、まるで初めて見る風景のように、見つめ合うから。
愛しい人の顔から、名前も、年齢も、過去も、性格も、すべてが消えたところを見たことがありますか。
自分が、過去のいっさいと切り離されて、たった今、死んで生まれ変わったばかりのような感覚にとらわれたこと、思い出せますか? そしてそれを相手に目撃してもらったことが信じられないと驚愕した経験は? 自我が消え、つまり過去と離れたとき、わたしたちは、相手と真に近づきます。ひとつになります。すなわち、愛します。
わたしたちは、異質なものは愛せないのです。  なぜならば、究極的には、異質なものなど存在し得ないのですから。  異質という概念は、自我が勝手に描き出すイメージに過ぎないのですから。
さらに言えば、わたし、あなた、という概念もまた、自我の幻想のひとつなのですから。

少し前に亡くなりましたが、スティーブン・ジェイ・グールドという生物学者がいて、彼はこのように言っていたのです。  男性に、無用な乳首があるのはなぜか。女性を真似て、「ほら、ぼくも君と同じだよ」と伝えたい気持ちがあるからだ。  女性に、クリトリスがあるのはなぜか。男性を真似て、「ほら、わたしもあなたと同じよ」と伝えたい気持ちがあるからだ。
すてきな考え方じゃありませんか! わたしはほかのどんな理論より、このスティーブン理論を支持しています。男と女は違うから惹かれ合うというのは間違った認識だと思っています。似ているから、惹かれるのです。 その意味で、異性愛と同性愛に違いはないとも思っています。お互いに、同じだねとうなずき合い、手をつなぎ、抱き合うのは、なんて自然で、愛らしいことでしょうか。
ふたつの身体は、ほんとうはわたしたちはひとつだったねとわかるため、つまり、姿を消すために、存在します。 さまざまな経験を積み、たくさんの宝ものをしまってきた過去という時間は、消えていくために、存在します。
身体も、過去も、愛の登場によって、消えるのです。
身体も過去も、それにこだわるのは、わたしたちの自我です。愛だけが、わたしたちを自我から解放してくれます。
わたしがたった今、持っているこの身体、見ているすべての風景、心に蓄積してきた数々の思い、感情、知識、この世界のあらゆるものは、消え行くためにのみ、存在している。 そう思ってすべてを眺めると、泣きたいほどの感謝の気持ちにとらわれます。そして、わたしはいつでも喜んで、すべてとさよならして、愛のときに飛び込んでいきたいと思っています。

セックス・ギャング・チルドレンということを言ったのは、松浦理英子さんです。わたしは、世界中の人間が、セックス・ギャング・チルドレンになれたら、この地球はどんなに平和で豊かで美しいかと夢想せずにはいられません。子どもが無邪気にたわむれ合う、驚きに目を見張りながら手に手を取り合ってお互いを探索する、そんなチルドレンこそ、神の子どもたちの自然な有り様ではないでしょうか。  セックスというのは、自我から抜けて無邪気になるための装置ではないかと思うのです。もちろん、無邪気になるのにセックスが必要ということはありません。 どんな方法でも、どんな瞬間でも、わたしたちは無邪気でいられるし、無邪気でいられないなら、「自分が剥かれていかないなら」、その行為は、セックスであれ何であれ、今すぐ止めたほうがいいのです。
無邪気でいるとき、わたしたちは、愛にひたされる、というより愛そのものになります。魂が愛し始めます。そして、身体は、意識から消えて行きます。

あなたは、自我なしではすべては混沌になってしまうと信じている。 しかしわたしはあなたに断言する。 自我がなければ、すべては愛になるのである。(『奇跡講座』より)