愛について 7

わたしは身体ではない。
ということを、前回お話しました。これはACIM 哲学の根幹を成すものであり、あらゆるスピリチュアル・ヒーリングの基本哲学でもあります。 「俯瞰して人生という舞台を眺めている自分自身」は、常に存在しているのですが、わたしたちは、すぐにそれを忘れてしまいます。たった今地上に生きている、この舞台にしか自分は存在しないという気分になってしまいます。 すると、ただちに、恐怖と、焦りと、競争心と、「うまくコントロールしなければ」という強迫感、「こんな自分じゃダメだ」という欠落感、劣等感にかられて、それが堪え難いので、気分を変えるため、忘れるために、依存できるもの −食べ物、ドラッグ、酒、セックス、ロマンス、その他なんでも− にしがみつく、ということが起こります。
恋愛やアフェアが、自分を忘れるための道具になってしまいます。
俯瞰する自分、すなわちほんとうの自分の魂を思い出すことで、この恐怖が、すうっと潮が引くように、消えていきます。引き潮になると浜辺に色とりどりの貝殻が姿を見せるように、本来の力、美しさ、ヒーリング・パワーと呼ばれるものが蘇ってきます。
ごく簡単に言えば、スピリチュアル・ヒーリングとは、こういうものです。

わたしは身体ではない。
お腹が痛い、腰が痛い、と言うとき、身体が痛むと感じるのは、実は思い違いです。身体はそれ自体では何も感じません。それを痛みとしてとらえているのは、心です。 ではなぜ心が痛みを感じるかというと、心のどこかに、打ちのめされている、がっかりしている、意気消沈している部分があるんですね。本来の力を発揮できずに悲しんでいる部分と言ってもいいと思います。 その部分が、本来の力を取り戻すべく、痛み/病を選ぶことで、エネルギーの方向転換を促しているのです。
わたしはこのことを学んで、みなさんにヒーリングをしてきました。ヒーリングによって、痛みが消える、病が消える、ということが数えきれないほどありました。 また、痛みが消えず、病も消えなかったことも、数えきれずありました。どちらの場合でも、わたしは、痛み・病気の持つ力の強さに、圧倒されてきました。痛みのなかにひそむ大きな力が、解放されたい、このエネルギーを愛に使いたい、と願っている声が、いつも聞こえます。

最近、わたし自身が、大きな痛みの経験をしました。ベッドに仰向けのまま、痛くてどうにも身動きできないということがありました。この痛みが、どの程度の痛みなのかということはわかりません。そんな程度は序の口とおっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、まあそれはたいへん!と反応なさる方もいらっしゃるでしょう。 わたし自身は、正直に言って、たいそう混乱しました。 いったい何が起こっているのか、ということがわからない不安、この痛みは終わるのか、それとも長く続くのか、はたまた終わることなく死に至るのか、等々の思いが去来しました。
その痛みのなかで、わたしがしたことは、心の力で痛みを忘れよう、というようなことではなく、逆にとことん痛みを感じよう、痛みの正体を見極めよう、ということでした。

この痛みによって気づいたことは多々あって、これから少しずつお話していきますが、痛みのただ中にもぐり込んでいきながら、「わたしは身体ではない」「この身体の痛みは現実ではない」という眼を持ったとき、まず何が見えたか、お話させてください。
そこには幾重にもなる層がありました。ぼおーっと白々と光る空間に目を凝らすと、数えきれないほどの透き通るベールのようなものが見えてきました。その薄い層の一枚ずつを、確実に見通していくことが大切だ、ということを教えてもらいました。
自分の肉体に演じさせているこの人生を俯瞰して眺める視線を保つには、たとえば大きな痛みのせいで、たちまち失ってしまうことのないような、確固とした理解の層が必要なのです。

わたしは身体ではない、と言うとき、まず第一の層として、 「わたしは、わたし自身を社会に適合させて生きる必要はない」 ということが、まずあげられるだろうと思います。
これは単純に、社会が/世間が/親が/仲間たちがこのように言うのだからそうすべきなのだ、というような考え方をやめるということです。
社会の意向に沿うように生きるのではなく、自分のほんとうの声(=俯瞰する自分の眼)に従って生きる練習をするということです。
これは、簡単なことではないですよね。友達の意見には左右されなくても、頭のなかで自分の母親の声と自分自身との声がごっちゃになって響いている、ということが、わたしのなかでも長く続きました。 子ども時代に親から口やかましく言われたことを、今度は自分で自分に言っていたり。そんな心の声に反抗するほど、声も負けずと声を張り上げ、身動きとれなくなってしまったり。
母だったら、こうするだろう。父ならこう考えるだろう。でもわたしはこのようにやってみる。
というように平静な気持ちでやれるようになるまで、ずいぶん年月がかかりました。こんなにもしつこく親の声にしがみついているのは「親にぶちまけたい文句が山ほどあるせいだ」「親がわたしのことを認めてくれていないからだ」と文句を垂れていたうちはだめで、ほんとうのところは「そうか、わたしは親を愛しているんだ、だから、しがみついているんだ」と感じられるようになったときに、この混乱は消えたように思います。

社会に適合できなければ生き延びられないと信じている方もいらっしゃるかもしれません。 社会人として、その社会が求める能力がなければいけない、なにはともあれ稼がなければならない、結婚しなければならない、あと10キロ痩せなくては恋愛もできない、エトセトラ。全部、錯覚です。
自分の人生をクリエイトするのであって、自分を社会に適合させるように生きる必要はない、と理解し、実践するのは、幸せであるために不可欠なことなのです。

「せめて恋愛だけは、自分のほんとうの声に従う」ことを選んでみるのは、とてもいい練習方法と言えます。
あの男性どう思う? と、まず友達に意見を求めるのは社会の声を第一にしようとする姿勢の現れですね。 親とうまくいく人でなければ、というのも同様。
収入が少なくともこれだけなければ、という目で相手を見るのは、お金と人生の幸福度を結びつけて考える社会のものの見方に見事にはまっています。
こういう場面ではこれこれのように振る舞ってもらいたい、と文句をつけるのもまた同じこと。 これらを、全部、やめてみたらどうでしょうか。 これが、わたしがしてきた方法です。わたしの場合は、仕事についても同様の姿勢でやってきましたが、今現在は家賃を払うために勤めに「身を売っている」と感じている人も、恋愛においてだけは、自分をぞんぶんに生きてみたらどうでしょうか。  それが、いずれすべてを変えてくれます。仕事も含めて、なにもかも。

誰が何と言おうとわたしは彼から離れない! ということが自分の声に従うこととは必ずしも言えません。離れる、離れない、の問題ではなく、わたしが彼を変えてみせる、という意気込みでもなく、自分が惹かれた人のことを、曇りのない眼で信じる、大事にする、ということです。
丹精に育てた花が、のびのびと花びらを広げるように、愛をもって大事に接した人は、必ず、それに応えてその人の本領を花開かせます。シンプルなほうれん草のおひたしだって、愛情を込めてほうれん草を扱えば、つまり、ほうれん草の食感や苦みや甘みを大事に生かそうと注意を払いながら湯に通すことで、艶も、味も、栄養も、驚くほど違ってきます。 どんなものでも、自分らしさを認め、受け入れ、生かしてくれる人に、ほんとうの姿、底力を、見せてくれるものなのです。

花も、食卓にのる小皿の一品も、好きなあの人も、愛でる心を忘れずに接したいものですね。そうしていると、その相手が、のびのび自分の持ち味を発揮しはじめるのを目撃できます。 さらに、好きなものを、素直に、自然に、好きだと言える自分になってきます。自分のなかに愛の空間ができてきます。つまり、わたしは身体ではない、と感じられる場所が増えてきます。「自分が誰か、わかってきます」

以上が第一の層です。次は何でしょうか。わたしは身体ではないのなら、性愛はどうなるのか、ということにふたたび触れなければならないかもしれません。次回のテーマとしましょう。

今回は、最後に、中原中也の一篇をシェアさせてください。 中原中也は好きな詩人ですが、好きなアーチストが多数いるなか、なぜ彼の誕生日だけを覚えているのかわかりませんが、四月二十九日が近づくと、不思議と毎年思い出し、彼の詩集をめくるのが習慣づいてしまいました。  抜粋ですがご紹介します。

幸福は  和める心には一挙にして分る。
頑なの心は、不幸でいらいらして、 せめてめまぐるしいものや、 数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。
幸福は、休んでいる  そして明らかになすべきことを  少しずつ待ち、  幸福は、理解に富んでいる。
頑なの心は、理解に欠けて、 なすべきをしらず、ただ利に走り、 意気消沈して、怒りやすく、 人に嫌われて、自らも悲しい。
されば人よ、つねにまづ従わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず。