愛について 6

地上に生きるものにとって、唯一確かなことは、生まれて、死ぬ、ということです。輪廻があると信じようが、信じまいが、この人生が、この肉体とともに終わるのは確実です。

つまり、人生は限られていて「時間はない」ばかりでなく、身体が思うように動いてくれる期間はそれよりさらに短いことは明らか、さらには、人生の時間は、必ず、どこかで、ぷつりと、途切れるものであり、その上、途切れるそのときを、誰も正確に知ることはできません。災難はいつ訪れるかしれないし、どんなに気をつけていても、百歳まで幸運が続くとは限らないのです。
とすれば、人生とは何か? という問いかけに対して、迷いようのない答えが出て来ます。 それは、ビデオ屋さんの棚で探すなら、『アドベンチャー』のコーナーに置かれているはずのものだ、ということです。
人生はいつ途切れるか知れない。そのときを知っている存在があるとすれば、それは「神のみ」。あるいは「神の御心のまま」。人生の長短、丁と出るか半と出るか、それは自分ではわかりようもない。努力のほかに、運がついてくれれば、うまくいくかもしれないが、努力はともかく、運については自分でコントロールのしようがない。だから人生は冒険物語です。わくわく、あるいはおろおろしながら、手探りで進んでいくジャングル探検です。  この冒険ドラマのテーマは何でしょうか? それはもう、快楽に違いありません。いつ途切れるかわからない短い時間枠のなかで、いかに多くの「よい経験」をするか。おろおろよりも、わくわく。どきどきより、ぞくぞく。泣くより笑いたい。ひもじいよりも食べ過ぎたい。雑穀噛んで一生を終えるのではなく美味珍味に舌鼓を打ちたい。とろけるようなロマンスと安心感の両方が欲しい。お金を貯めて清潔、快適、自由な暮らしがしたい。労働従事に時間を費やすのではなく、自分でなくてはできないことを見つけて没頭したい。その他いろいろ。

では、この快楽がテーマの、冒険ドラマの主人公は誰でしょうか。それは当然、「わたしの身体」ということになります。人生という冒険物語がどのように展開していくかは、わたしの身体が、この地上のどこにいて、どの程度機能してくれるかにかかっています。身体が言うことをきかなければお話にならないのです。息の続く限りドラマもまた続くとは言え、死んでしまえば確実にドラマはエンディングを迎えます。さらには、容貌が誰にどの程度好まれるかということも大事な要素になるのかもしれません。

人生は冒険。テーマは快楽。そのドラマを動かすのは肉体。
このことを改めて確認することによって、やるぞ! と元気が出てくるなら、調子のいいモードに入っている証拠です。疲れるなあ、と引きこもりがちになるなら、落ち込みモードということになります。なんとか頑張って、いいモードに戻りたいと願います。この繰り返しが、この冒険のストーリーを編んでいきます。
だから、この世界には、冒険をうまくやっていくための、やるぞ!モードを高めるためのノウハウがあふれているというわけです。
この物語に、完璧な成功はあり得るでしょうか。
どのみち途中でカットされる冒険に?
この物語に、心からの安らぎはあり得るでしょうか。
御休憩所にたどり着いても、いつ何が勃発するかわからない危険なジャングルの中にいて? しかも再び立ち上がらなければならないとわかっていて?
この物語を生きながら、宇宙を、神を信じるということが可能でしょうか。
神様の気まぐれで明日車にはねられて終わりかもしれないのに?

この冒険物語を生きている限り、心の平和を得ることは、難しいようです。少なくとも「次に備えて」いることが必須条件として求められているようです。運をつかむ方法も取得したいが、せめて精一杯の努力はしなければ。今日も努力。明日も努力。たった今、心からの喜びが感じられないのは、怠けていた証拠。もっと頑張らねば。  緊張しますね。肩の凝りがほぐれません。胃の痛みが止まりません。時には腰が動かなくなります。  でもそんなんじゃだめなんです! 肩だの胃だの腰だのに問題があるようでは、冒険はスムースにはいかないのですから。
自分が、どれほどの緊張状態にあるかをまず知ることは大事かもしれません。この状態こそが、日々のあらゆる行動の動機になっているからです。

前回、快楽/痛みへの依存についてお話しましたが、ひとつの快楽に執着しない方法は、いくつもの快楽を転々とすることです。アイスクリームのあとに塩辛いお煎餅を求め、スポーツ観戦で熱くなり、温泉に行き、恋人を取り替え、チャレンジングな仕事に没頭し、次はパリでお買い物をする、という具合にです。アイスクリームだけに依存しているときと同様、心にあるのは、「次は」の文字。アイスクリームが舌で溶けている間に、快楽と痛みに襲われ、それが堪え難いので、次の快楽の波に乗ることを求めずにはいられないのです。
わたしたちは、快楽 – 痛み – 快楽 – 痛み、と続く果てしない冒険のなかで、気分の変化そのものに執着しているとも言えるのではないでしょうか。よく観察してみれば、わたしたちの日常の行動のほとんどが、「気分を変えるためのもの」ではないでしょうか。テレビ、映画、旅行、美食、ショッピング、音楽、セックス、スナック菓子、アルコール、喫煙、エクササイズ、たくさんのものが、「さあ、気分を変えましょう!」と誘いかけています。

なぜ気分を変えたいのか。
答:今の、この気分が続くのは堪えがたいから。

では、今の、この気分とは?
答:恐怖。

いつまでたっても安心できないという恐怖。決して完璧にはなれないという無念さと自責。急がなければ、時間はない、という焦り。そして、お互いにわかり合えないという孤独感。
つまり、愛とは相容れない気分ということになります。人生の主人公を肉体に置く限り、愛はない、あるのは気分の変化の連続のみ、ということです。

主人公が肉体とは、別の言葉で言えば、五感を人生と思い込む姿勢です。自分の身体が、見、聞き、触り、嗅ぎ、味わうものを絶対とする考え方です。そして、これまで見てきたように、五感にとらわれているうちは、恐怖とともに生きていかなければならないし、愛からも遠く離れて生きることになります。恐怖でなく安心、気分でなく愛とともに生きたいならば、五感を超える「眼」を開かなければならないのです。

CRSのクラスでは、五感ではとらえられないもの、目に見えず、聞こえず、触れず、匂いなく、味もないものを感じ取り、その感覚を磨く練習をします。
わたしはよく、このように説明しています。
まっすぐに伸びる線路を見ると、二本の線はやがてぶつかる。けれどもそれは遠近法でそのように見えるだけであって、実際は、二本の線はずっと平行して走っている。
空が厚い雲に覆われると、太陽がいなくなってしまったように見える。けれども、太陽はどこにも消えずに上空にあって、ただ厚い雲に遮られて陽射しが届かないだけだ。
どう見ても、地球のまわりを太陽がまわっている。しかし実際は、地球が太陽のまわりをまわっている。しかも自転しながら。
わたしたちが五感に頼るとき、「大変! 線路がぶつかってる!」と叫びます。「だって見てみろよ。まわっているのは太陽のほうじゃないか!」と主張します。

皆がそのように言うときに、地上の、肉眼の視線ではなく、俯瞰して眺める視線があれば、線路は平行とわかります。太陽系全体を眺める眼があれば、太陽のまわりを巡っている自分たちの姿、兄弟たちの姿が見えます。
このような眼で、人生という冒険物語を見ることができたら、どんな風景が現れるでしょうか。物語を、スクリーンを眺めるように、どこかから見るわけですから、スクリーンに映っている物語を動かしているのが自分の肉体であるにしても、それを見ている「ほんとうの自分」は物語の外、ここにいる、ということがわかっています。
たった今、スクリーンに映し出すように自分の人生の物語を見ているわたしが、ここにいるなら、 「わたしは、身体ではない」 ということが理解できます。

今、このスクリーンに見えている身体が朽ちても、目の前で展開されているドラマが終わっても、わたしはまだここに存在し続けるのだ、ということが実感できます。ああ、ならば焦る必要はないんだ、闘う理由はないんだ、と感じます。さらには、ドラマの展開を自由に変更することもできるのではないか、ということにも気づきます。
この理解ほど、生まれてこのかたの緊張、肩の凝り、胃の痛み、恐怖、不安、孤独感、頑張らねばという強迫感等々から気持ちを解き放ってくれるものはありません。
つまり、この理解があってはじめて、人生を、主人公を演じる肉体を、また登場人物のひとりひとりを、「愛する」ことができるようになるのだという気がします。

恋人に、気分を変えるためのムードメーカーの役割を演じてもらう必要はもうありません。快楽をもっと与えてくれるように、少しでも恐怖を、孤独を忘れさせてくれるようにと縋ったり煽ったり媚びたりする必要も、ありません。「〜をしてほしい」「〜のような人であってほしい」と注文をつける必要のない、この愛を、わたしは『魂で愛すること』と呼びたいと思います。 五感を超えたところで、肉体を超えた視線で、すなわち魂で愛するということを学びに、わたしは一個の身体を、道具として授かって、この世に生まれてきたという気がしているのです。