愛について 5

 『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド & ニコ』  このグループに、わたしは大きな影響を受けています。
麻薬と性的倒錯と闇と死の世界、と宣伝されていた、同名のアルバムを初めて聴いたのは十七歳のときでした。そして、その美しさ、純粋さ、優しさにまいってしまいました。
それまでわたしが想い描いていた「女性の美しさ」というものの正反対を体現している、ニコという謎のヴォーカリストにメロメロになりました。このバンドが生まれ、活躍しているニューヨークという場所に憧れました。詞を書いているルー・リードという<倒錯者>に惚れました。
彼はこのように歌うのです。

あなたが自分の美しさを信じないなら、私はあなたを映し出す鏡になろう。
風にも、雨にも、夕陽にもなろう。
ドアを照らす明かりにも。あなたが自分の家にいることを教えてあげられるように。
それでももし、あなたがまだ暗闇で迷っているのだったら、 私はあなたの目にも手にもなろう。

「愛する人」の言葉はきれいだ、と思ったものです。 くらべて、「愛して」と乞う人の言葉には、臆病さ、ずるさ、そしてなによりもどこかに嘘があるのではないかとも考えました。
「愛する人」は、「愛する人」を愛するのだろうなとも。 ふたりが、いつも日なたを歩いているのではないにしても、どちらかがときに暗闇にうずくまることがあるにしても、せめて一人が、闇の外に立っていない限り、または光源の方角を知っているのでない限り、愛の吐息は続かないのではないかと。

このように気づくきっかけを、このアルバムはくれたのですが、その気づきの芽はまだ柔らかで、ナイーブでしたから、「この人たちの仲間になりたい!」という心の叫びを即行動に移すことはできませんでした。 この人たちに相手にしてもらえるには「自分はまだまだダメだ」と感じたこと、その自己批判を、わたしは評価しています。あのとき、欲するままにニューヨークに来て、まっすぐマックス・カンサス・シティや CBGB に飛び込んでいたとしたら、わたしはとてもその刺激に耐えられずに数年と命が持たなかったでしょう。 事実、このバンドをプロデュースしたアンディ・ウォーホルのまわりに集まってきて、初心な感性を傷だらけにし、命を落とした若者たちは大勢いたのです。

ありとあらゆる新しい刺激が充満していた当時のニューヨークのカルチャー・シーンで、生き延びたのは、「愛する」人たちでした。
生きられなかったのは、愛へ向かう心をさまたげるただひとつのもの、心の暗闇つまり痛みに執着した人たち、あるいは執着から立ち上がれなかった人たちでした。 サム・シェパードでさえ、こう述懐しているのをご存知ですか。「あの時代のニューヨーク、数年間のイギリス逃避行がなかったら、僕は生き延びられた自信がない」。
痛みに対する執着? そうです。痛み、すなわち快楽に対する執着、耽溺です。痛みと快楽がコインの裏表というよりまったく同じものであるということは、恋の痛みを思い出せば理解できるかもしれません。

大好きな人が自分に微笑んでくれた/声をかけてくれた/手を握ってくれた/キスしてくれた/好きだと言ってくれた/抱いてくれた、等々があって、それで「ずきんとする甘い感覚にとらわれた」とすると、次のその瞬間をただひたすら待ち焦がれるように心がセットアップされます。 相手が、とろけるような微笑みを見せてくれたすぐそのあとで、冷たく背を向けるとするなら、その人をなんとしてでも振り向かせよう、もう一度自分に向けて微笑ませてみせようと、必死になります。

もっと言うならば、相手が今まさに自分を熱く甘く抱きしめているそのただ中で、すでに次の抱擁に向けての闘志をみなぎらせているのです。 この人は、もうすぐまたわたしに背を向ける/わたしに冷たくなる/わたしの好きになれない性格に変わってしまう、等々のことがわかっていればなおさら、その先に訪れる甘さを切なく待ち焦がれるものです。

次の機会を待つ間、心はきりきりと痛むでしょう。逡巡する思い、闘志、不安、孤独、悲しみ等々に振り回されることになるでしょう。次はいつ会えるのか。彼は電話を/メールをくれるのか。くれるならいつか。「いったいあの人は、いつ、わたしをほんとうに愛し始めるのだろう?」

今まさに舌の上でとろけているチョコレート、その美味を味わう代わりに、この味を失いたくないという恐れに似た気持ちにとらわれ、その恐ろしさに急き立てられるように次の一粒、また一粒と、口に放り込んでいくのに似ています。
チョコレートであれ恋愛であれ、このように恐れに急き立てられている状態が、「むさぼっている」状態なんですね。だから、快楽と痛みは同時に存在するものであり、快楽のただ中に、すでに痛みはあるというわけなのです。
五感を刺激する、すべての快楽は、それに「一途に向かって行けば」痛みになると言い切っていいだろうと思います。
寒気がようやくゆるんで、やさしく肌を撫でていく春風の心地よさもまた例外ではなく、そこに執着/耽溺すればたちまち痛みとなって心を襲います。言うまでもなく、完璧な春風など、あっという間に去っていくからです。明日にはもう、うだる暑さがやってくるからです。
待ち望んだ春風も、新鮮なトロの味も、ロマネ・コンティの喉越しも、麻薬のようなセックスも、それを意識するときにはすでに、過去のものになっています。過ぎ去ったものをどんなに頑張ってキープしようとしても、そこで行われるのは、孤独な記憶の再生産という作業だけで、実質をつかむことは叶いません。心は張り裂けるように痛みます。 あの人はこんな笑顔を見せたではないの。あの人はこんな言葉を口にしたではないの。あの人は骨が折れるほど強く抱きしめてくれたではないの。繰り返しイメージを立ち上がらせ、「次の機会」に向けて気持ちを奮い起こそうとしながら、そのイメージは、過去となった、実にあやふやな、不確かなものなので、心は錨を失って、大波に揺れに揺れ、やがて沈んでいくしかありません。
そして「次の機会」には、ふたたび同じことが起こるとわかっているからこそ、恐れはもっと大きくなっているし、だからもっと「むさぼろうとする」し、すでに「また次」のことで心はいっぱいだし、つまり快楽も痛みも倍加しているのです。

快楽主義=刹那主義と言われることがありますが、刹那を、この瞬間という言葉の意味そのままに解釈するなら、あたっていません。 快楽は、決してこの瞬間を与えてくれないものです。快楽に溺れるとき、わたしたちは、これまで見てきたように、過去にしがみつき、未来に恐れと期待の眼を見開いていて、「今/ここ」にはいないのです。 けれども、刹那を、人生はどうせ短い、今、やっておかなきゃ、今、ゲットしておかなきゃ、という意味ととらえるなら、まさしく、快楽への耽溺とはそのような姿勢のなかで生まれるものと言えるでしょう。

変わりゆくことの焦り。不確かなことへの恐れ。限られた人生の時間。自分という存在のはかなさ。輝いたひとときのあっけなさ。伝えたいことを伝えられなかったもどかしさと後悔。その言い訳。・・・このような世界のなかに自分を据えるとき、わたしたちは、刺激に弱くなります。 つまり、興奮しやすくなり、傷つきやすくなります。快楽を、つまり痛みを、生きる原動力にするようになります。痛みの強さを、愛の強さと勘違いします。そして、前述したように、その痛みは倍加していくのです。はじめはやさしい春風だったのが、突風になり、竜巻になります。
その進行を止める方法はただひとつ、「愛する余裕」を持つこと、「愛すること」に心を振り向けること、「あなたの美しさの鏡であろう」とする心を持つことしかありません。

たとえば「麻薬と性的倒錯と幕s」という火の出るような快楽と痛みをくぐり抜けながら(それがそのまま事実かどうかわたしは知りませんが)ルー・リードは、愛を手放さなかったが故に生き延びたのです。
快楽は(痛みは)求めていくものでもないし、避けられるものでもないと思っています。わざわざ求めなくても、あるいは逆に必死に避けようとしても、それはやって来てしまうもののようです。快楽は(痛みは)春風であり、うだる暑さであり、晴天であり、嵐なのです。小川のせせらぎであり、家屋を飲み込む奔流です。なだらかな山の稜線であり、そそり立つ高峰です。泳ぐに適した凪いだ海であり、サーフィンに最適な高波です。
地上の自然に、限りない顔があるように、わたしの将来にも、限りない快楽(痛み)があるのではないかと思っています。すべてを、息を吸って吐くように、自然に受け入れられるようでありたいと思っています。どれにもしがみつかないことによって。避けようとあがくのを止めることによって。

また、自分の心の襞を一枚、一枚開いていけば、うずき出す痛みがあるのに遭遇しますが、それを過去の傷とかトラウマと名づけて、なんとかしようとは思いません。それらはわたしの心の映写機がかつて映し出した風景のいくつかにすぎないのだから、そのままそこに置いておこうと思います。旅先の絵葉書を手にとるつもりで眺めます。
わたしは、地上の風景のすべてを知り尽くしたいと願っているのかもしれません。十七歳の頃と違うのは、そのために何でも体験したい!と思うのではなく、風景のどれにも執着しないことですべてが見える、とわかっていることです。 「愛する」姿勢、五感を超えた意識を持つことで、官狽フ世界、地上の自然のすべてを、抱きしめたい、それが唯一の道と自覚していることなのです。
世界を知り尽くすということと、丸ごとの自分になるということは同義語でしょうから。