愛について 4

これまでの流れから、視、聴、嗅、触、味の五感を超えた感覚について考えてみるはずでしたが、その前に、もう少し「愛欲」にしがみつかせてください。
「愛染」「愛欲」は仏教において「煩悩」として片づけられている、と前に書きました。愛欲の物語は、仏教説話のなかで、たとえば道成寺の物語として記されています。

これは「娘道成寺」として歌舞伎、映画等で繰り返し語られていますから、よくご存知の方も多いと思いますが、原典は法華験記(法華経の信仰者のスピリチュアル体験記)にあって、そこでのお話の骨子はこういうものです。
美青年の修行僧、安珍は、一夜の宿を求めた先の娘、清姫に恋い慕われます。清姫は、安珍の枕元に来て、 「あなたとわたしには縁がある。前世からの縁に違いない。だから今こそ契らなければいけません」と迫るのです。

安珍は、熊野詣での帰りに寄るから、と適当なことを言い置いて逃げ出すのですが、なんとしてでも想いを遂げようと、安珍捜索の旅に出た清姫に、見つかってしまいます。安珍はまたしても「人違いだ」と振り切って逃げます。 それでも清姫はあきらめるどころか、ついには大蛇に変身して川をも渡って追いすがってきます。安珍は助けを求めて道成寺に駆け込み、鐘のなかにかくまってもらいます。ところが、清姫の大蛇の口から吹き上がる炎に、鐘ごと焼かれてしまうのです。清姫は、安珍のあとを追って入水自殺をします。
後に、道成寺の老僧の夢に、安珍が現れて懇願するには、 「女に殺され、夫婦にされてしまいました。どうか写経をしてこの悪縁を断ち切ってください」  老僧が写経をすると、安珍はやっと女から解放されて、安らかに往生を遂げたということです。

このお話によるならば、清姫の恋は「ひとりよがりで」「執念深く」「相手の命を奪うことも厭わぬ」「あの世でなお、迫りくる」「かくも恐ろしく」「はた迷惑も甚だしい」オブセッションであって、麗しい愛とは正反対のベクトルをさすものということになります。
自分が追われる身であったらと考えると、うなずける気がしますね。好きでもない人に迫られるだけでも鬱陶しく、気持ちが重くなる。そのうえ相手の想いと行動に制御が効かなくなれば、身の安全さえ危ぶまれ。引っ越し、転職を余儀なくされる、警察の厄介になる、さらには取り返しのつかない犯罪に至る場合もあり。
けれども、自分がストーカーの立場だったら(と言って人聞きが悪ければ、待ち伏せをするほうの立場だったら)、つまり清姫の立場で想像するなら、わかる、その気持ちわかりすぎる、と感じる人が多いのではないでしょうか。清姫の物語が、今でも繰り返し上演されているのがその証拠ではないでしょうか。わたしたちは、彼女の悲恋に、感情移入し、涙せずにはいられないのです。

勇気を振り絞って気持ちを打ち明けたその人に、邪見にされ、約束を破られ、あげくは「人違いだ」とまで言われる哀しさ。
そこまでされても、潔くあきらめられない自分の心のみじめさ。
こんなに愛しているのに悪女、はたまた鬼婆のようになっていく(清姫の場合は大蛇ですが)自分自身に対する恐れと絶望。
このような思いは、それこそ、前世からの記憶のごとく、誰にも覚えがあるものなのかもしれません。実生活での経験の有無に関わらず、なぜか「わかる」ものなのですね。
自分が、こんなひどい仕打ちに耐えられる人間とは思わなかった。
自分が、誇りのかけらもない人間だったなんて知らなかった。
自分が、こんなふうに恥をかなぐり捨てるほど情けない人間だなんて知らなかった。しかも、よりによって、恋慕わしい人の前で。
こうした思いは、片思いの場合とは限らないでしょう。夫婦の間にも、このような慟哭はあり得ますよね。どの場合でも、心がこのようにむせび泣くとき、その人は、まさしく、恥辱にまみれているのです。決して美しい姿ではないのです。そして、そこに救いはありません。
それでもなお、わたしたちは、その醜さのなかに、救いのなさに、何かきらめくもの、惹かれるものを発見します。たぶん「一途さ」というものを。あるいは「華々しい愚かさ」とでもいうようなものを。

一途さ。英語に置き換えると、Faith でしょうか。  Faith を持とうと努力する必要はない、とACIM には書かれています。
ー Faith は誰でも持っているものだからだ。それをどこに使うか、エゴに使い込むか、愛に注ぐかは、あなた次第である。
生きとし生けるものすべてが、一途さを持って生まれてきています。一途さという性質がなければ、生命は成長していかないからです。薔薇は薔薇として育つし、竹はまっすぐに伸びて、時期が来れば節を作り、また伸びていきます。ドングリがなぜ、自分が樫の木になるのを知っているのか、未だ生物学の謎と言われていますが、事実、ドングリは迷いなく樫の木に成長するのです。カミカゼ特攻隊の少年たちは、その一途さを天皇に捧げました。サン・フランチェスコはすべてを捨てて神に仕えた人でした。一方、アドルフ・ヒトラーに知性も人生も明け渡して尽くした側近たちがいました。一途さとは、すでに持っている性質であり、また、どんなものへも、どのようにでも使えるものなのです。

マルグリッド・デュラスは「毎朝わたしは、生きたいのか、死にたいのか、自分に尋ねなければならなかった」と言いました。死んでいいなら、酒という神に仕える、生きたいならば、酒は断つ。長く苦しい葛藤の果てに、彼女が生きることを選べたのは、酒に注がれていた一途さを、文学への愛に振り向けることができたからです。『愛人』その他の傑作の数々は、彼女の一途さが酒よりも書くことに向かったために生まれたものです。

生きたいか、死にたいか。愛したいのか。それとも自己満足したいのか。一途に「喜び」たいのか。それとも「心の痛み」に耽溺したいのか。飲みたいか。書きたいか。一途さというものがわたしたちの生来の性質であるにせよ、その方向を定めることは自分の意志に任されているのかもしれません。自由である、ということもまた、わたしたちの生来の、自然な姿だからです。
愛されながら自分をみじめに感じることはできません。自分の弱さを訴えながら相手を愛することはできません。相手をありのままに受け入れながら、同時に自分の思うようにコントロールすることもできません。
わたしたちは、どちらかを選ばなければならないのです。

1 愛するのか。  それとも、  2 愛を求めるのか。

すなわち、 1 自分と相手の生命の成長を「御大切」に思い、讃え、感謝し、そしてその思いすべてを分かち合いたいのか。
それとも、 2 相手が態度を変えない限り(振り向いてくれない限り/自分を選んでくれない限り)未熟で苦しみを抱えている自分の人生は変わることはできない、と信じるのか。
すなわちまた、 1 愛は自分でどのようにでも創造できるものなのか。
それとも、 2 愛は相手次第なのか。
そして、たった今、自分が2番の状態だとしたら、もしくは、1と2の間を揺れ動いているのだったら、「どちらを選びたいかよく考える」「新しい選択を何度でも選び続ける」練習をしたほうがいいかもしれません。人生は(愛は)、必ず、心が選ぶ方向に進んでいくものだからです。そして、新しい選択をする場合には、繰り返し、強い意志を持って、つまり一途に、その選択にしがみついていかなければなりません。そうでなければ古い心の習慣に、たやすく引きずり戻されてしまうからです。
この練習こそ、この新しい習慣こそ、愛に一途になる、ということではないでしょうか。
わたしたちが、何にでも一途になれる存在ならば、自分の弱さや心の痛みではなく、収入や地位でも、どんな政党や主義主張でもなく、愛にこそ一途になりたいと、わたしは思っています。そのように心を習慣づけたいと、努めています。心に痛みを抱えるのをやめて、代わりに愛を満たしたいと願っています。
一途に愛を選ぶ。それはつまり、痛みを手放す決意をすることではないか、とわたしは思っているのです。
痛みを抱える、そして手放す、ということについて、次回は触れたいと思います。