愛について 3

今回は、エロスについて考えることになっていますが。エロスについて語る、などということがわたしにできるとはとても思えません。
その表面を少しでも掠めてみるのが関の山です。 それでも、エロスと愛は、しっかり絡み合い、あるいは反発し合っている、他人同士とは言えない間柄ですから、このテーマは今後も繰り返し言及していくことになるでしょう。
今回はその序章です。

ぼくの手が、君のはだかが纏っているカーテンを開く。
君が、ほら、少しずつ剥き出しになっていく。
からだの中に、まだからだが隠されているね。こんなにたくさん。
ぼくの手にやらせて。もっと見つけさせて。

これは、オクタビオ・パスの詩の、わたし流の訳です。 この詩は、エロスのすべてを網羅して表現しているのではないにしても、ひとつの真実をついていると思いませんか。 服を脱いで裸になっても、まだほんとうの姿をそのまま晒したことにはならない。裸のからだの奥にある、恥じらって、ためらって、怯えて、必死に隠そうとしているもの、また同時に見つけてもらうのを待ち焦がれているものを、おそらくは、二人の協力で、そうっとすくいあげること。 それぞれの知性、感性、すべてを総動員し、これ以上はないほどに注意深く、手に手を取り合って分け入っていく、からだという大地。次々と新しい姿を見せるその大地の向こう側にあるものは何? それを暴いていくことが、エロスなのかもしれません。
こんな詩もあります。わたしがいちばん好きな愛の詩人、ルーミーの作品です。

あなたが、光の粒子に見える。くるくるまわっている。
その光の顔で、わたしの顔を照らしている。
その光の風が、わたしという木を震わせている。
あなたの名前が、わたしの口のなかで甘く溶ける。
わたしはもう、踊りをやめていいのね。内気な、臆病なわたしでなくていいのね。
実を全部、落としてしまって。根こそぎ掘り起こして。
こうされることをずっと待っていたのだから。

めくるめく時間、エロスの波に打たれているとき、こういうことがまさしく起こっているのですね。
エロスとは何か。 「暴かれるもの」である。と、言えるかもしれません。  二人の「聖なる」協力で、からだという大地が耕され、掘られ、剥かれていくとき、何が起こったか、思い出してみてください。そこに出現するものに、二人して、びっくりしませんでしたか。驚きのあまり、震えが止まらなくなる、という経験をしたことはありませんか。そして、そんな瞬間、時間も空間も、意識の彼方に、消え去っていくのに気づきませんでしたか。  時間と空間が遠のくときの、あれほどの安心感を、ほかのシチュエーションで持つなんて、到底無理だとさえ思ってしまいます。(それは勘違いなのですが)。
そして、その安心感のなかで、「愛」がそこにあることを、実感するのですね。
「驚いて目を見張る」ことと、「鏡」と「奇跡」は、同じ語源を持つのだそうです。どれも「感嘆をもって眺める」という意味だそうです。  エロスというものの持つ性質のひとつは、これに違いありません。
そして、エロティックな体験は、それが「神とのオリジナルな関係」すなわち「絶対的な安心感と信頼」の体験に行き着くことならば、わたしたちの自然な性向に他なりません。わたしたちは、我知らず、つねにエロティックな瞬間に惹かれているということになります。
それでも、エロティックな体験をするためには、それを受け止める用意、姿勢が要るのではないかとわたしは思います。それに対して開かれている心、相手に協力させる信頼感、この実に繊細な共同作業のために、ゆっくり時間をかけられる忍耐力や、直感力、思いやりの訓練が、求められるのではないかと思います。
そして、そこには相性の善し悪しもあることでしょう。 お互いを探り合いながら感じるものは、お互いのからだの中で奏でられている音楽だとか、おびただしい数の映像だとか、言葉の貯蔵庫だとか、あらゆるものが総動員されるでしょうから、「愛は万人へ向かう」としても、エロスは誰とでも共有できるものとは言えないでしょう。 ひとつの人生で、それを共有できるパートナーとの出会いはごく限られていると言ってもいいかもしれません。 しかも同じパートナーと、長くそれを分かち合えるとも限りません。数えきれない数の相手と数えきれない数のセックスをしても、一度もエロティックになれたことがない、ということだって、あり得るのです。
だからわたしは、エロティックな体験を、大事にしたいし、厳粛な気持ちで求めたいし、心して受け止めたいし、それを分かち合う相手を、永遠に讃えたいと願うのです。

ここで、エロスを「官能」という言葉に置き換えてみたらどうでしょうか。 官能は、五感で味わうことです。わたしの五感がとらえたもの、その美しさ、豊かさには、どれほど感謝してもしきれないどころか、いつ思い出してもめまいがするほどの輝きを持っています。
藁葺きの屋根にオレンジ色をにじませているタヒチの夕陽や、オートバイで坂の上に出た途端に眼下に広がったフランス、プロバンスの広大な花畑や、メキシコ西海岸で、金環食の四分間に経験したセピア色の世界、それからデスバレーの砂漠で、360度に広がった夕陽の輪に囲まれたこと。 たとえば、旅ばかりしていた二十代に積み重ねた体験の、そんな、あっと息を飲むような瞬間の数々は、時が経ってもくっきりとした輪郭のまま、心のなかに存在しています。
あるいは、もっと単純に、あちこちの南の島で味わったマンゴー。その輝ける、とろとろの、汁したたる果実が口のなかで溶けていくときの、得も言われぬ感覚。 それもまた、オートバイや、遺跡や聖地訪問といった体験と等しく、心に住んでいて、いつでも取り出して誰かに見せる準備を整えているような感じがします。

なぜいつも、いつまでも、わたしはそういう記憶をためておくのでしょうか。過去は、文字どおり過ぎ去ったものなのですから、潔く忘れてしまえばいいものを。  後生大事にしているわけではないのです。毎日ほかの雑事のあれこれと一緒に、心から払い落としているはずなのに、必ずまた蘇ってきてしまうのが、これらの瞬間なのです。落としても、落としても、戻ってくる。削っても、削っても、またふくらんでくるようなのです。  官能は、分かち合う相手を求めるものだと思います。同じ体験を誰かにさせたくなる、伝えたくなるものだと思います。もうひとりの目撃者を得て初めて、その官能的な刺激が、発見が、エロスになるのではないでしょうか。

わたしは、もしかしたら、分かち合い方が、まだまだ足りない、と感じているのかもしれません。それらすべての体験を、そっくり丸ごと分かち合う相手を求めているのかもしれません。あるいは、何度分かち合っても、「神との完璧なコミュニケーション」に至りそうで、すっとまた離れてしまう、そんな心もとなさに放り出されてしまっているような気もします。  神との、宇宙との、自己との合一、すなわち絶対的な安心感と確信、を求めて生きているのがわたしたちならば、その生も、死も含めて、存在それ自体がエロティックということになります。だから、それを抑えることはできないのです。そして、合一の境地にしかと留まることができるようになったとき、わたしたちは、からだという道具を、喜んで脱ぎ捨てるのでしょう。

ここに浮かんでくる疑問がひとつ。神との合一は、エロスを通して体験できるものと言ってしまっていいものかということ。五感という官能的な愛を導くものならば、なぜこれほど大勢の人々が、五感を制御し、第六感を発達させて真実を見ようとしているのか。 なぜわたし自身もまた、これまで書いてきたように、五感をじゅうぶん満喫していながら、五感を超えた世界に留まる訓練を自分に課しているのか。 この問いに答えることを、次回の挑戦としようと思います。