愛について 25

先日、何か月も放ったらかしにしてあった家具を、時間をかけて磨きました。 木の家具と、石の家具、それから鉄の家具があるのですが、汚れをよく拭き取って、それぞれ専用のワックス等で磨いていくと、みるみるうちに、違ってきます。 何が違ってくるかというと、部屋のエネルギーが、文字通り<見違える>のです。 ばらばらの時期に、ばらばらの店で買った、作られた年代もかけ離れた、一貫性のない家具(しかも、高価なものではありません)でレイアウトされた部屋なのですが、それぞれのバイブレーションが共鳴し合って、ある目的を持ったエネルギーが生まれる感じがよくわかるのです。
実は、家具を磨くついでに、少しレイアウトを変えました。なぜ変えたくなったのかわかりませんが、無性に「変えたい」と感じるときってありますよね?  それで、位置を変えて、磨いていくと、配置変えの理由がはっきりしてくるのです。ああ、部屋のあり方をちょっと変えていたのだな、と。
風水とは違うと思いますけれども、クロップ・サークルの占いには似ています。 波動が、つまりクロップ・サークルの特定の形が、特定の性質を持ったエネルギーを放射するのと同じように、波動を生み出す物体(家具)の位置(が作り出す形)が、特定のエネルギーを放射するのです。 わたしは住まいを、クロップ・サークルと同じエネルギー体の一部と見なして暮らしているようなところがあるようです。何を見ても、何をしていても、クロップ・サークルの、また見ぬ全体像を思い描いてしまうのです。  クロップ・サークルのミステリーのひとつに、クロップ・サークルの現場に居合わせた人たちに、不思議なことが起こっている、たいていは、奇跡の癒しが起こっているということがあります。   癒しが起こるとき、そこには必ずや、眼に見えないクロップ・サークルができているに違いないと感じるようになっています。

ヨーガをしているとき、わたしは身体の動きや形そのものに、たぶん、まったく、注意を払っていません。生命というエネルギーが、身体を、いろいろな角度で、いろいろな方向に流れたり、弾けたりするのを、心の眼で見ています。わたしの、この身体を一部に使って、肉体の眼には見えないクロップ・サークルができあがっていると想像しているのです。グループで瞑想しているとき、ひとりひとりの心を一部として、大きなクロップ・サークルができあがるのを見ています。  クラスで ACIM を勉強しているとき、やはりひとりひとりのエネルギーが刻々と変わって、ひとつの大きな形を創造するのを見ています。

わたしたちの意識が、エゴの幻想のなかにいるとき、それは幻想なので、何も起こりません。ところが、意識が生命(宇宙のエネルギー、プラナ、気、ホーリースピリット、と呼んでおきましょうか)につながると、音を奏で、その音はさまざまに呼応し、クロップ・サークル、つまり癒しのエネルギー(またの名を奇跡)が形作られるのです。

わたしたちは、五感という限られた器官に頼り、その狭い視野でものごとを判断し、コントロールしようとし、何が自分にとって幸せかを決めつけ、騒がしく、忙しく、日々を過ごしてきました。そして、愛についても同様に、「どこに愛がある?」「この愛は正しい?」「この愛は役に立つ?」「この愛は裏切らない?」「どうしたら愛が育つ?」「この人でほんとうにいいの?」「あなたしかいない」「あなたではだめ」云々と、長々とドラマを作り続け、浮き沈みを繰り返し、そのドラマこそが愛だと、生きるということなのだと、思い込んできました。
それは、確かに、切実なことでした。小さな、貧しい村に生まれた少年少女のなかに、一日も早くその村を出て都会に行き、「世界を見たい、つかみたい」と胸を焦がす者たちがいるのと同様、”この愛を通して世界を見たい、つかみたい”と祈ったのですから。  でも、小さな村から自由になろうと頑張っていた過去は、もう終わりました。

今、わたしたちは、限られた五感ではない、覚醒した視線を、思い出そう、取り戻そうとしています。  愛はドラマのなかのどこかに存在するものではないので、探しても無駄なのです。  愛はドラマの外側、ドラマを見ている視線のなかに潜んでいて、一旦、意識が愛に向けられるなら、その愛が「ドラマ全体をあまねく照らす」のです。  わたしたちは、アマテラスオオミカミ天照大神を、今、思い出すことができるというわけです。  ここで間違ってならないことは、愛が照らす、のであって、「わたしが」照らすのではない、ということです。「わたし」は、「彼」や「彼女」と同様に、愛に照らされている存在なのですから。

久しぶりに磨いた石のテーブルは、結婚してすぐに、夫とふたりで買ったものなので、わたしはこのテーブルで、二十年近くも食事をしていることになります。  わたしが離婚を決めたとき、自分に何が起こっているかさっぱりわかりませんでした。 こんなふうに言うと頭がおかしいんじゃないかと思われるかもしれませんが、自分が離婚しようとしている、その理由が自分でわからなかったのです。 それはいいアイディアではありませんでした。結婚というのは二人の関係についての覚悟のことだと思っていましたし、夫を愛していましたし、一緒に日本に帰ってマンションを買い、子どもを産んで、家庭を作っていこうとしていたのです。 ところが、なぜかわたしはニューヨークに留まり、なぜここにひとりぼっちでいるのか見当もつかず、呆然と猫を抱いていたのでした。

自分が頭で考えていること、信じていること、やろうとしていることと、実際にやっていること、起こっていることがこれほど違うという経験は初めてでした。 非常に理不尽であり、腹立たしいという以上に、呆れ果てていたことを覚えています。 いつも「自分で行動して」いたわたしが、否応なく「受け身に」なったのも、初めてのことだったように思います。 さらには、誰に対しても納得のいく説明ができないという事実をそのまま認めて、頭のなかで合理的な起承転結を作り上げることをせずに、正直でいたという経験も、初めてだったかもしれません。 何より驚いたのは、正直であるしかなかったわたしが、心の混沌をできるかぎりそのままに伝えるということをした、つまり、納得のいく説明はできないのだということを伝えたときに、夫が、完全にわたしの言わんとしていることを理解し「納得して」くれた、ということでした。
考えてみれば、死別を含めたすべての別れは、常に理不尽なものです。  なぜこの人が? なぜ今? なぜこのように?   納得のいく別れなど、ないのではないでしょうか。    わたしたちは、なぜ? と首をかしげながら、ただひたすら、それと知らずに愛に照らされながら、悲しみと悔恨をくぐり抜け、そして、いつか、その別れが「過去のものとしてとらえられるようになったとき、「あれは別れではなかった。別れなど、実は存在しないのだ」ということに気づくのです。

わたしたちは、自分の身に起こったこと、体験したことを、過去のことだと理解し、その過去に別れを告げたとき、ついに、自分が実はいつも愛に照らされていた、愛に運ばれていた、とわかるのではないでしょうか。わたしはそのように経験してきたように思います。  そしてそのように気づくとき、わたしたちの意識は、クロップ・サークルのエネルギー、あるいはホーリー・スピリットにぴたりとつながって、目に見えない癒しの光が流れ込んでくる得も言われぬ感覚を経験する、とも言えます。  つまり、それが癒しです。