愛について 24

占いが、嫌いではありません。 特に好きな占いが二種類あって、ひとつはメディスン・カード、アメリカン・インディアンの英知に基づいた動物占いです。もうひとつは、クロップサークル・カードで、昨年、自分でノートを作成して勉強しました(大笑)。 このようなカード類(トランプ占いも含めて)や、ペンドラム等、けっこう好きです。当たりますしね。カードを混ぜたりペンドラムをそっとぶらさげたりしているときに、すうっと気持ちが鎮まって、三次元の知覚を超えた視線につながっていることが意識されてきます。 これがないと占いは当たりませんが、これがあるなら、必ず ”当たり” ます。

星占いにしてもタロットカードにしても、あるいは ”霊感” にしても、占いというものが、まずわたしたちに示してくれる真実とは、「占いの結果が示すあなたの未来は、現在のあなたの心にある考え/期待/希望/恐れ/疑い/心配とはまったく関係がない」ということだと思います。 占いは、そういう意味で気持ちのいいほど『非情』です。

つまり、悲観的にものを考える癖のある人がつねに悲惨な出来事を引きつけ、楽観主義者にはいつもいいことが起こる、ということはないのです。 悲観的な人、疑い深い人は、どんなに良いことがあっても、心のなかの悲観は消えないが、楽観的な人は、人生の波風に直面しても、楽観的な姿勢を失うことはない、違いはそれだけです。
わたしたちの心(アタマ、でもいいですが)にあるいかなる想念/感情/信念/価値観も、人生の舞台で起こる出来事を左右することはない。
このことを、はっきりさせておきましょう。 心の勉強をしたり、エネジー・ワークをしたり、一生懸命に頑張っても、人生に都合のいいことばかりを呼び寄せることはできません。なぜならば、それぞれの人生に巡り来ることは、実は、例外なく「良きこと」だからです。その良きことを、わたしたちが、未熟な三次元の知覚で、あれこれ非難したり、回避しようとしたり、有頂天になったりするわけですが、何をしようと、何を考えようと、その良きことは、ただ存在し、またやってくるだけなのです。

前回書いたように、わたしたちの知覚は、全体像のほんの一部の断片しかとらえることができません。そしてその断片をねじってみたり、色をつけてみたり、いろいろしようとしますが、何を行っても、全体にはまったく影響がないのです。  ですから、このように言うこともできます。
どんなにネガティヴな/意地悪な/悲観的なことを考えても、怯えることはない。未来に影響を及ぼすことはあり得ないから。 ただし、”たった今”、何を心に抱えているかは、”たった今”、自分のまわりに起こっていること/見えているものを決定する。
当然です。心が曇っていればまわりに雲しか見えません。心の雲が流れ去ったときに、まわりの雲も一掃されて、晴れ渡った空が姿を現します。 この場合、雲というのはネガティヴな考え/感情とは限りません。あらゆる考え/判断/感情/信念が空を遮る雲になります。「自分の考え」を投影した途端に、空は陰るのです。

では、雲が一掃されて、空が現れるとき、その空はどんな姿をしているのでしょうか。 わたしが見ている空の姿は、こんなふうに見えます。あるいは、聞こえます。あるいは、香ります。
わたしが、カードを混ぜているとき、ホーリースピリットに「教えてください」とお願いするとき、同時に、自分で考えるということを放棄しています。 これこれなのではないか。こうだったらまずいな。こうであってほしい。経験からいってこちらが正しい。このようにするべきだと思う。云々。自分で判断すること、決定すること、願望、恐れ、すべてを完全に放棄するのです。 すると、何が起こると思いますか。 メッセージが来ます。 「あなたは、今の今まで、何ひとつ間違ったことはしてこなかった。あなたが何を考え、どんな言動をしてきたとしても、それらは、現実にはわずかほどにも影響していないのだから」
ご理解いただけるでしょうか。今、心に抱えているもののいっさいを放棄すると、同時に、自動的に、過去のすべてが、その影響が、心から消えてなくなるということなのです。
わたしが考えた/感じた/言った/行った、たくさんのことの中には、たくさん、間違っていたことがある、傷つけられ、ねじ曲げられたところがある、でも、それらの間違いや傷は、今のわたしをダメにはしていない、なぜなら、そんな間違いは、すべてわたしの幻想のなかで起きていたことだから。現実のわたし自身とは、幻想のなかで生きていた『わたし』とは別の存在なのだから。
このメッセージほど、わたしを”変えた”言葉はほかにありません。このメッセージを受け取ったとき、わたしは、はじめて「癒された」と感じました。とてつもなく大きな重荷から解放されたと思いました。
すなわち、良く生きなければならない、良きことを成さねばならない、という信念の重荷から、すっかり解放してもらったと感じたのです。  メッセージをどんなふうに受け取ったか?  声が聞こえるわけでも、文字が浮かび上がるわけでもありません。  ただ、わかる、のです。
それは身体の奥底から響いてくる太古の振動のようにも感じるし、周囲の空気が伝えてくる音波のようにも思えます。 雲が去り、晴れ渡った空と、広々とした大地の間に立って、その静けさに耳をすませているような感じです。 意識がキャッチする音の世界から離れて、意識が聴き取ることのできない高い波動しか存在しない森へ入ると、つまり、完璧な静けさのなかに身を置くと、なんとも表現のしようのない、音のない音が聞こえてきます。そんな感覚です。目に見えないほどの光度を持つ光に包まれている感覚です。 匂いのない、うっとりする匂いのなかを漂っている感覚です。

このように、わたし自身が癒されると、三次元の知覚ではわかりようのないメッセージが次々と降りてきます。それが、”霊感”と呼ばれるものです。少なくとも、わたしにとっては、そうです。
そして、それが、愛、だと思っています。単純に、それ以上の歓びはほかにあり得ないからです。 誤解しないでいただきたいのですが、この認識/覚醒が、地球上の三次元の人生をどうでもよいこととして扱うということはありません。 逆に、この三次元の「断片の世界」「地球という、人間という、特殊な、限られた世界」をもっともっと、いとおしく感じるようになりました。 この世界で、わたしたちは、もっともっと、美しさを、愛を、安心を、歓びを、表現し、満たしていかなければと、それがわたしたちの役割であり、すなわち幸福なのだと確信するようになりました。

最近、ローリング・ストーンズのツアーがニューヨークに来て、例によって足が地からちょっとばかり浮いているわたしですが、ロック・ミュージックの良さは、解放されるというその一点に向かって放たれる音楽でありながら、最後まで、小節、音階というものに規定されているということではないかとつくづく思っているのです。 フリージャズや、即興のアート表現にも味がありますが、ある枠組みのなかで精一杯生命を表現する、というけなげさのようなものに、わたしは惹かれるのです。
わたしたちは、三次元という枠組みを与えられています。 その枠内には、全体の断片しか映らないということをわきまえた上で、与えられた枠内を、美と愛でいっぱいにして、全体を讃える、または全体に捧げる、ということを、わたしたち人類は、”我知らず”してきたし、これからは、意識して、していくことになるだろうと、ホーリースピリットは、わたしに伝えてくれています(クロップサークル・カードも、そのように示唆してくれています)。
断片のあれこれを、きれいに、豊かにしたいのです。殺人や戦争や災害の代わりに、きらきらした輝きを宿したいのです。 病気や疲労を見る代わりに、命の強さを見たいのです。 この断片的な世界に貢献するためでなく、全体の宇宙に差し出すために、宇宙を讃えるために、です。それが唯一、自分自身を讃える方法 ー 生き延びる方法 ー だとわかっているからです。