愛について 20

あけましておめでとうございます。
わたしは昨年に引き続きクリスマスを南の島で過ごし、すっかり陽に灼かれての新年になりました。 ヨガ・アシュラムに滞在していました。
今回、長時間のアーサナ・クラスを連続して受けてきて、気がついたこと、教えられたことがあります。 アーサナの練習をしていると、ポーズをとろうとして、できない、ということがあります。身体の柔軟性が足りず、途中で止まってしまうのです。 ポーズはなんとかできているけれども、そこでリラックスできない、長く保っていたれない、ということもあります。 どちらの場合も、身体のどこかに痛みを感じています。
なるほど痛みというのは、抵抗のことなのだなと、練習のたびに思うのです。 身体が抵抗するから(ときには心が「そんなのできない!」と抵抗します)痛い。つまり痛みの原因というのは、ポーズをすることにあるのではなく、もともと存在している”抵抗”にあるのだということです。 身体のどこかに、開いていない、閉じて、かたく、縮まっている箇所があるということです。
身体の痛みはすべて、心の痛みの投影ですから、心のどこかに、開いていない、閉じて、かたく、縮まっている箇所があるので、ポーズをとろうとして、痛い、できない、無理だ、という声があがるのです。
そんなとき、呼吸に注意を向けます。深い、長い呼吸に心が向かっていくと、痛みが薄れて、身体が伸び、正しいポースに近づきます。 痛みを言い訳にして「こちら側」に後ずさりしてしまわずに、痛みの原因を思い出し、痛みのなかでリラックスしようと努めるならば、自然に正しい姿勢に導かれ、もはや痛みのない状態に到達できる、というわけです。これを、ふつうに「ヨガが上達した」と呼ぶのです。

痛い経験をすると、わたしたちは条件反射のように、急いで後ずさる傾向にあります。 咄嗟に顔を伏せ、胸を縮めて、身を隠そうとします。痛みの前で面を上げ、胸を開いて、深呼吸しようとする勇気を、なかなか持てないものです。 痛みを表面化させるものから身を遠ざけて、心に痛みがないフリをしようとするのです。 実際、わたしたちの日常生活で、痛みがないフリをするため、感覚を麻痺させるための行動がどんなに多いことでしょうか。 気晴らし、暇つぶしで、逃げる。または「さびしい」という言葉に置き換えてしまうことで痛みを認めることから逃げる。
でも、一度でも、痛みから逃げるのではなく痛みを通り抜けて向こう側へ行くという体験すれば、次の痛みに、前ほどは動じなくなります。 逃げずに踏ん張って、安定した呼吸を見つけようという姿勢が持てるようになります。 なぜなら、それをすると、痛みの向こう側に、すがすがしくも穏やかな、甘く、また香ばしい空気が満ちていることがわかっているからです。
痛みは、その向こう側の、広々とした草原に到達するための過程に起こるもの、とわかっていると、逃げずに対処できるようになります。
うれしいのも愛。 悲しいのも愛。  前回、そう書きました。
気持ちいいのも愛。  痛いのも愛。  これも真実です。
つまり、気持ちのいいことを経験したかったら、痛みにも勇敢になりなさい、ということです。
痛いのはイヤだから、嬉しいこともあまり起こらないでもいい。そういう選択は不可能でしょう。 嬉しがるということは人間の生来の性質ですから、嬉しいことをあきらめるということは簡単なように見えても、できないはずです。
嬉しいことを喜んで受け止めるなら、痛い経験をするときも、喜びを忘れてはならないはずです。

前回書いたように、地上のあれやこれやは全部、酒の肴なのですから。 違った味わい、違った食感、違った姿形、違った匂いで、さまざまに目や鼻や舌を刺激して、お酒の味をひきたててくれる愛すべき、有り難き、品々なのですから。     これは、愛という名のお酒です。お酒を忘れて、テーブルに並んだ幾種類ものお皿のなかから、ただ一品に執着し、耽溺して、そればかりをかき込んでしまっては、とてもお酒は味わえません。 さまざまな食感の肴が、お酒の味わいの奥深さをそれぞれに引き出してくれるものなのに、好き嫌いの注文が続くばかりのようでは、せっかくの美酒も宝の持ち腐れです。
食卓がアンバランスでも、または見苦しく汚らしく荒れていても、美酒それ自体が味を落とすことはありません。 でも、どうせなら、それだけの美酒というのなら、姿勢を正し、心を開いて味わい尽くしてみようとするのが、酒席についた者の義務というか、マナーではないかと思うのです。
それがわかってはじめて、好みの肴が出そろってくるのではないかとも思うのです。

たとえばわたし自身は、かつてのように、量を求めません(かつては、多いほど良い、多いということはいいことだ、と感じていました)。 揚げ物やピリ辛は、ベタっとしていない洗練されたもののみ求めます(かつては、派手でゴージャスで、スケールの大きい、異彩を放っている存在に惹かれました)。 こってりしたものは胃にもたれます(かつては、あらゆる体験に、胃がもたれるほどの濃厚さを欲していました)。 同じお惣菜を繰り返しいただいて、飽きることが少なくなりました(同じ豆を同じように茹でても、味とバイブレーションは日々違うのです)。 珍味は今でも好きですが、端から飛びつくことはもうしませんし、何でも少ない分量をよく噛んで、時間をかけて味わうようになってきました。
選り好みをせず、好き嫌いを主張せずに、「いただきます」と心をこめて手を合わせ、それから箸をとる姿勢が、逆に、その人らしい人生のあれこれ、筋の通った、調和のとれたコース料理を自然に創造するようになるのではないでしょうか。
好き嫌いを述べたてているとき、その痛みが、いかに理不尽なものかと怒っているとき、わたしたちは痛みのこちら側にとどまっているので、向こう側の愛は見えません。 だから、どの皿をつついても、文句ばかりが出るのです。 先の喩えを使えば、お酒のおいしさがまったくわかっていないのです。 苦いのは嫌い! とやってしまわず、舌に苦みが乗っている状態でお酒をすすってみると、また格別の味わい、思いもかけなかった喉ごしに遭遇できるかもしれないのです。

相手に文句を並べ立てていて、あるとき、相手が自分にどれほど細やかで深い愛情を持っていてくれたかに気づく、という経験をしたことはありませんか。 恋愛の相手であっても、夫婦であっても、親子であっても、友人同士であっても、そういうことは一度ならずあるのではないでしょうか。
そんなとき、わたしたちは、心のなかで、泣きます。自分の浅はかさ、傲慢さ、狭量さを知って、呆然とするのです。
身近な人が亡くなると、残された者は後悔の念にかられます。こうしてあげればよかった、あのときああしておけばよかった、等々と。 それよりも亡き人の魂の自由さに想いを馳せることが供養になる、ということを前に書きました。
それでも、生前のその人に対しての自分の態度を反省するということは、当然起こるものと思います。 その人に対する文句や批判を少しでも持ったことがあるならば、誰でもそれを悔いずにはいられないのではないでしょうか。
悔いて、わたしたちは、泣きます。取り返しがつかないという事実に打ちのめされます。
このように泣くとき、心はもっとも深く、痛みます。 この痛みを逃げずに受け止めるならば、全身が麻痺するほどの痛みとして感じられるはずです。 なぜなら、そのとき、同時に、その痛みの原因となっている、愛の気づきがあるからです。   痛みの向こう側にある愛に行き着くには、痛みをくぐり抜けなければなりませんが、その最終地点で、わたしたちは、痛みのただ中で、愛を見る、という場所に立ちます。愛が見えたとき、痛みは、一段と増すはずです。 ああ、わたしは愛されていたんだ、という驚くべき気づき。  ああ、この人も、こんなにも愛を求めていたんだ、という意外な気づき。 わたしは、許されていたのか、という、たぶん人生でもっとも深い発見。
わたしもこの人も、個性や自我の奥に、これほどの愛の場所を持っていたのだったか。わたしたちは愛の宇宙に生きている、だから何かを追い求めたり、つかまえておこうと躍起になったり、策略をたてたり、自分を守ろうと必死になる理由はどこにもない、という「悟り」。
このときわたしたちは同時に、それに気づかず、批判と悲嘆、自己憐憫に陥っていた自分を深く恥じて、全身に痛みを感じるのです。
自分が孤独だと感じ、自分や親や誰かや社会を責めているとき、実は自分が愛の存在であったと知る。愛というお酒がいつも杯に満たされていて、味わってもらうのを待っていると知る。このとき、わたしたちは、歓喜と痛みの両方を、一度に経験することになります。
喜びと痛みが一体となる瞬間です。  前回、愛の讃歌こそがわたしたちの務めだ、と書きましたが、その歌のクライマックスは、この瞬間にこそあるのではないかと思うのです。
愛を知るとは、自分が許されているのを知ることかもしれません。それこそが、地上のわたしたちが目指さなければならない人生の経験ではないかと思うのです。
あるいは、この経験を、正確には、「生きる」と呼ぶのではないでしょうか。

皮肉なことに、わたしたちは別れのときに、この至上の「生」を経験することが多いようです。 別れの瞬間にはじめて素直になれ、コミュニケーションができ、心のなかで、喜びと痛みが結婚することで、やっと、さよならを言える。そういう経験をしたことはないですか。
瞑想よりも何よりも、危機に直面することで人は悟る、と言われるのはこういうことでもあるんですね。
許されていることを実感するときの強烈な感覚、まぶしさ、力強さによって、それ以外の時間のあれやこれやが、ただぼんやりとみている夢のようなものにすぎなかったと、悟ることができます。
浮き世、という言葉の意味が、すっと心に入ってきます。
毎日、こんな気づきを体験したいものです。
痛みから逃げない、というところから始めて。
それがきっと、生命というものを丸ごと実感する最高にして唯一の道なのだという気がしています。

生きているつもりになって暮らしている人たちが大勢いる。  アナイス・ニン