愛について 2

前回は、思春期の恋を思い返してみて、「愛とは生命のことである」のかもしれないと、考えてみました。

愛と生命、または愛=生命を想うとき、浮かんでくる一節がもうひとつあります。

君、死にたもうことなかれ。

これは、与謝野晶子が戦地に赴いた弟の身を想って詠んだ歌で、お国のため、天皇陛下のためとされた戦時下での歌、すなわち国に対して真っ向から反旗をひるがえした、実に勇気ある声だったわけです。
ロマンスの歌ではありませんが、ロマンスと等しく、切実で、激しい、ほとばしる愛が感じられないでしょうか。
戦争のような非常事でなくても、この想いは「愛する」者すべてに向けて、いつもわたしの中にあるように思います。大事な人、家族、親しい人たち、そしてセンターでお会いするひとりひとりに対してわたしが心から願っていることは、突き詰めていけば、ただひとつ、『君、死にたもうことなかれ』ということかもしれないと思うのです。
それはいつもほとばしっているわけではないかもしれません。このような想いは、非常事態に直面しないうちは、なかなか雄々しく立ち上がってこないものかもしれません。けれども、静かに心の内を見つめてみると、いつでも、それがきらきらと瞬いているのが見える気がします。陽に照らされた南の海がまぶしく輝くように、あるいは森のなかの湖が、白い泡のように穏やかな陽射しを照り返すように。

高校生だった頃のわたしの願いは、ただひとりの人にしか向けられず、その願いは、「わたしを見て!」でした。
見てもらうことによって、あるいはただ、見て! と願うことそれ自体によって、わたしは自分が生まれるのを感じていたのですから、それはほんとうに切実なものでした。
そして今、わたしの切実さは、「死にたもうことなかれ」というものに移っています。それもただひとりの人に対してではなく。そして自分自身に対しても含めて。
死ぬな、と、わたしは自分に言っています。相手にも、死ぬな、と乞い続けています。つまり、生きろと励まし続けている、生きるために、死なないために、必死に模索している、という感じです。
そうです。死なないとは、単に息をして食べてこの世に存在することをさしてはいません。死んだように生きたくはない、ということを言っているのです。
与謝野晶子は、単純に、生きて帰ってこい、と願ったのですが、この願いを噛みしめるほどに、それは生きて帰る、ということを超えて、つまり肉体の生死を超えて、もっと深いところに生きるということはある、その生をつかまえなさい、という声が聞こえてくる気がするのです。

『奇跡講座』という本に、こんな一節があります。
ーーーなぜ生命を惜しむのか? なぜ「まだ死にたくない」とわめくのか? それは、「私はまだぞんぶんに生きていません。まだほんとうには生きていません。私は死ぬ前に、ちゃんと生きたいのです」という気持ちがあるからではないのか? すなわち、まだ生きていないからでは?ーーー
わたしは、生きたい。いつ死を迎えてもいいと思えるくらい、今をじゅうぶんに生きたいものと願っています。だから、自分に「心を死なせるな」「全的に生きよ」と言わずにいられないし、相手にも、同じように願わずにはいられないのです。

前回にあげたエミリー・ディキンスンの詩からは、生命が身を震わせる感じ、やわらかな土が盛り上がって水が湧き出す感じ、その細やかな振動が伝わってきます。与謝野晶子の歌からは、ほとばしる水しぶき、あるいはうねる大波、水のエネルギーが感じられます。君よ、枯れるな。ぞんぶんに水を吸い、水にひたされ、生き続けよ。そう念じているように聞こえます。
そして、これは、励ましの声です。
あなたが死ぬとわたしが悲しいから死なないでおくれ、というケチな気持ちから出たものではなく、相手に自分を捧げきった声です。純粋に相手を想う叫びです。自分以上に想うのではなく、自分と等しい存在として。
「愛」は、相手をこのように見るもの、そのように導いていくものではないでしょうか。

はじめに振動があった。
そこから豊かな水があふれ出た。
その水は、流れ込み、合流し、波打ち、降り注ぐ場所すべてに向かう。

わたしの「愛」は、こんなふうに生まれて育ったように感じられます。それはもちろん、さまざまな人生経験、学びのうちに育っているのですが、恋愛が授けてくれたものは決して小さくありません。
恋という狂態が振動を産みました。そして産まれたものは、うねり、流れ出し、合流できる相手を求めました。つまり、「自分が真に生きるには、相手が必要だ」ということを知ったのです。

自分の内に瞬くもの、きらきら光るものは、相手のなかに同じものを見たときにのみ、自覚されるものなのかもしれません。それが「相手のしあわせ、喜びを願う」ことが、わたしたちの本性だということの理由なのではないでしょうか。そしてそれは、自分のために相手の幸せを考えるわけだから利己的なものだ、ということではなく、相手が幸せに生きていなければ自分も幸せにはなれない、わたしが幸せでなければ相手は幸せになれない、という、相互的なもの、実に平等なもので、わたしたちは誰もたったひとりでは生きられないと言うときの真の意味なのではないでしょうか。

相手の姿をひとめ見るために駆けずりまわっていた高校生のわたしのなかにさえ、そのことを知っている場所があったように思います。ぼんやりしている遠い記憶の底から蘇ってくるのは、自分のというよりも、相手の感動、相手の喜びのあれこれというのが証拠に思えます。
魂が肉体を離れる直前、人生のすべてが走馬灯のように脳裏を過ぎる、と言われますが、そうだとしたら、あの彼が「そんなにも僕のことが好き?」とつぶやいて絶句したこと、その目尻に涙が伝ったことは、必ずそこに再登場するに違いありません。あのとき、わたしの心に何かが流れ込んできて、完璧に満たされたと感じた、その記憶は、今でもいつでも取り出すことができます。というのも、その後、今に至るまで、その瞬間と同じものを感じること、その経験の繰り返しが、わたしの「愛の体験」そのものだからです。

わたしが相手を求めるとき、心を尽くし、創意工夫を凝らして相手を喜ばせようとしているとき、わたしは相手を誘っているのです。逆に相手がそれをして、わたしの心の琴線に触れるとき、わたしは誘われているのです。
誘い、誘われること。いったい何に?
たぶん、生命を共に讃えあうことに。生命を共に感じあうことに。
だから、一緒に映画を観たり、音楽を聴いたりして、共にそこから良きもの、生命の輝かしさといったものを感じることが、共に喜び合えることが、わたしには大事なのです。一緒に生命の、愛の水を浴びて、ずぶ濡れになりたいのです。
誘いと言えば、また与謝野晶子を思い出します。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

直裁的な誘い、というより挑発ですね。エロティックな挑発です。
誘いは、情熱が満ちてくれば挑発になるし、生命の分かち合いはエロティックなものにまっすぐ向かうでしょう。
さて、では、エロスとは愛の行き先なのでしょうか。あるいは実は正反対のものなのでしょうか。
愛は、肉体がするものなのでしょうか。
まさか。明らかに、心がするものです。ならば肉体を使う愛の行為は、もはや愛ではないということになるのでしょうか。肉体に視線を向けると、愛はそのとき消え失せるのでしょうか。

生命は、すなわち愛は、その発露を常に求めています。伸びようとする力が途絶えることはないはずです。
ならばこのように言うことができるかもしれません。愛が肉体レベルにとどまるならば、それは肉体と同様、伸びたあとに朽ちていく。愛が肉体レベルを超えるならば、肉体のように枯れて、朽ちて、死に絶えることはない。
つまり、愛は終わることがある、また、愛は永遠になり得る、ということです。
終わらない愛、永遠に届く愛は、エロスとどのようにかかわり合い、絡まり合っているのでしょうか。次回はそこに焦点を合わせたいと思います。