愛について 19

MTAのストライキのために、思いがけない時間ができて、センターの近くの映画館で Townes Van Zants のドキュメンタリーを観てきました。 (さらには、実に久しぶりにこのエッセイに戻ってこられたわけです)。
わたしはカントリー系の音楽はほとんどまったく聴かないのですが、何曲か、または何人かの例外はあるということです。
彼は、三回結婚して、三人の妻それぞれと子どもを作り、スクリーンを観る限り、けっこうちゃんとした家庭生活をその都度やってきたように見受けられます。 育った家庭も良さそうだし、ヒット曲もあるし、妻にした女性たちは愛くるしい美人揃いだし、豊かな人生を送った人であることに疑問の余地はないと言えます。
その彼に、インタビュアーが「あなたの歌はなぜ悲しい歌ばかりなのですか」と聞くと、「悲しい歌ばっかりとは思わないな。絶望の歌だってあるよ」との答え。 「人生ってのは絶望的だし、かなしいものじゃないかな。人生がハッピーなものだったら、そりゃあハッピーな歌を歌ってるよ」

そう言えば、多くのハッピーな、優れた芸術家が、多くの、優れた、かなしい/絶望的・悲劇的な詩や小説や音楽や芝居や絵や彫刻等々を残しています。 そしてわたしたちはそれらの作品が大好きで、それらの作品を通して、かなしさ、絶望、悲劇を分かち合っている間、たいへんな幸福感にひたっています。 人生に悲恋など求めているわけもないのに、悲恋を描いた秀作があると知れば、喜び勇んで駆けつけるのがわたしたちです。 そしてぞんぶんに悲しみに身を沈めながら、わたしたちは、この上なくハッピーなのです。
なぜ? 悲しい話なのに? あるいは悲しい話だから?  いいえ。物語が悲しかろうが、絶望的であろうが、まったく逆にコメディであろうが、関係ない、わたしたちは、ただ偏に、その作品がすばらしいからハッピーなのです。  創造者の側から考えると、もっとはっきりします。 わたしがものを書くとき、その内容が楽しくても、悲しくても、よく書けていれば、ハッピーになれます。 逆に、どんなにハッピーな話でも、よく書けなければ、落ち込みます。

ニューヨークに移住してまもなく、I against I という題名の中編を文芸誌に発表しました。 ニューヨークに来てとことん落ちぶれ、落ち込んだ日本人男性を主人公にした小説で、そこにはもちろん、わたし自身の押しつぶされるような経験と感情が表現されているのですが、書いている間、書き上がったとき、発表されて以降、どの瞬間も、産みの苦しみをくぐり抜けたとはいえ、この上なくハッピーでした。  ( I against I とは、わたしがニューヨークで最初に大好きになったハードコア・パンク・バンド Bad Brains の曲名です。Bad Brains は、当時は、ごまかしに対する容赦のなさ、正直さ、ひたむきさで心を打たれるバンドでした)
では、よく書けているとはどういう状態か? それは、とっぷりと、その内容に(かなしみに/絶望に/痛みに)漬かっているときなんですね。 かなしみそのものになっているとき、その感情のなかに自分のすべてを投げ込んでいるとき、そのかなしみを、余すところなく表現できているとき、わたしは、死んでもいいと思うくらいハッピーです。 あるいは、”すでに死んでいるほどハッピー”なのです。
どんな出来事を/感情を扱おうが、怒りを歌う/不安を描く/希望を歌う、どの内容であろうと、それと一体となるとき、すなわち、その感情に怖じ気づいたり、批判したり、恥じたり、解決方法を考えたりすることが一切ない状態に至るとき、わたしたちは、ハッピーになれるのではないでしょうか。 なぜかというと、それを一体になって初めて、そこに主体/客体、主観/客観の区別が消えて、そのものになる=執着から離れる、ことができるからではないでしょうか。

創造者がまず、作品を創りながら、その幸福に至る。それで受け手もまた、その幸福を分かち合う。悲しみなり、不安なり、絶望なり、希望なり、といったさまざまな<地上のあれやこれや>を肴にして。
これこそ、あらゆる芸術作品の醍醐味ですよね?    この醍醐味を、この幸福感を、愛と呼ぶのではないかとわたしは思うのです。  悲しいから愛じゃない、のではなく、憎んでいるから愛じゃない、のではなく。  エキサイティングな、面白おかしい、情熱的な人生をエンジョイしていれば愛、なのでもなく。  わたしたちが、押し寄せるいかなる感情にも怖じけることなく、受け入れるとき、願わくば、感謝して受け入れるとき、わたしたちは、愛につながり、愛の一部であることを、ふかぶかと味わうことができるのではないかと思うのです。
わたしは、夜遅くセンターを閉めて帰宅するとき、路上で、急に足がすくんで、しばらく動けなくなることがあります。 あの人が、この人が、抱えている深い苦しみ、痛み、孤独感に、いきなり心臓を鷲掴みにされているような感覚にとらわれてしまうことがあるのです。 立ち止まっている間、わたしは、その苦しみ、痛み、孤独感そのものを生き抜いている感じがしています。それはもう言語を絶すると言っていいほどの強烈さであり、痛みが麻痺するほどの痛みであり、怖じ気づいたり躊躇ったりする余裕を与えないものなのです。
そして、次の瞬間、何が訪れるかというと、なんとも言えない浄化の感覚、そして、自分が宇宙というスピリットのただ中にいる、と実感できる、清々しくも甘い感覚です。
そんなとき、わたしは、自分の意識が愛に触れたとわかります。

人の悲しみに共感したから愛を感じた、というようなことを言っているのではありません。 愛は、すべての”地上のあれやこれや”の向こう側に、苦しみや孤独の向こう側に、常に存在しているものだということです。     不思議なものですね。こういうとき、なぜか、やはり、夜空を見上げてしまいます。 そして、なんとも表現しようのない、やさしい存在が空から舞い降りてくるのを感じるのです。 「視線をあげなさい」  そんな囁きが聞こえるような気がするのです。

愛とは、”地上のあれやこれや”のすべてに存在するものだと思います。  つまり、わたしたち人間は、愛することなどできないのではないでしょうか。宇宙の英知を知ることが叶わないのと同様に。  わたしたちにできるのは、愛の一部として生き抜くこと、”地上のあれやこれや”のすべてが愛の発露と受け入れること、そしてなにより、あらゆる存在を讃えることだと、わたしは思っています。

人は愛さない。  愛は、宇宙のもの、神のものだから。

つまり、愛とは宇宙のこと、神のことだから。  わたしたちは、愛するのではなく、愛のなかにいる。愛そのものなのです。愛であるわたしたちは、存在が愛なので、手を動かしても、あくびをしても、何をしていても愛以外のことはできない。  それに気づかずにいると、妄想のなかで苦しむことになります。
わたしたちが真実であるときとは。 「愛を祝福しているとき」 「讃えているとき」  地球の半分を必死で飛ぶワタリドリのように。  風に揺れる大振りの百合のように。  駆け出しては転ぶ幼子のように。  それが、わたしたちの義務ではないでしょうか。
愛するのではない。愛を表現すること。これを義務とする存在を、地球上生物と呼ぶ。そう定義してもいいくらいだと思います。  たとえば恋愛は、イコール愛ではないけれども、間違いなく、愛の讃歌のひとつでしょう。だから、恋愛は、いかにつらくとも、みじめでも、みっともなくても、相手に拒絶されても、とことん生き抜くべきものです。 「傷つくのはイヤ」「まずは相手がどう思っているのか知りたい」等々の御託を並べていては、恋愛ごっこの域を出ませんね。 大波のただ中を命がけでくぐり抜けていくのでなければ、それは恋愛でなくとも「完結したひとつの体験」とはなり得ないでしょう。
そして、なお、わたしたちは、「この恋愛が愛なのではない」「この恋愛の向こう側に、愛を見られる自分になりたい」という祈りを手放してはならないとも思うのです。  人生を、怖がることはない。  しかし人生は、真なる覚悟を迫るものである。    そのように心得て、人生をやっていきたいものです。

「初恋の彼女が僕をだましたり、それで僕がワインひと瓶抱えて町を出たりしたのも、  親父がおふくろを殴ったり、それでおふくろが家を出たりしたのも、  俺たちが恐喝したり、その金でクスリを手に入れたりしたのも、  全部、ただうろうろと死ぬのを待っていたくないからだけなんじゃないか?」
Townes Van Zandt (taranslated by Yasuko Kasaki)

「南君、人間が人間を愛せると思ったら、それはまちがいだぜ。人間は人間を愛することなどできん。好色とか情欲を、愛などと思っちゃいるまいがね」
三浦綾子『自我の構図』より