愛について 18

ニューヨークに住みはじめてから、たくさん写真集を買うようになりました。 日本にいるときは、銀座のイエナ書店で輸入写真集を丹念にめくり、お値段をちらりと見て、そのまま帰っていましたが、こちらではずっと安価に手に入るので、逆に、少々痛い出費でも、高めの稀少本も買ってしまいます。 写真集のよくないところは、かさばって重いことで、場所をとる、引っ越しができない、床がかしいでくる、等々の不便があります。
けれども、額に入れて眺める一枚や、インターネットで拾うショットとは違って、写真集は、並べ方、ページ数を考え抜いて作られた、いわば一連の物語ですから、不便をしのぐ価値があると思っています。 ペーパーバックで再出版されているものがあれば、迷わずそちらを買い、少しでも軽くすませるように努めてはいます。

最近また一冊買ってしまいました。ほかの写真集とは毛色の違った、同時にいちばん写真らしい写真の集められた一冊です。 メトロポリタン美術館で始まった写真展のカタログなのですが、この写真展というのが、こんなすばらしいキュレーターがいるのか、と嬉しくなるような傑作で、何かというと心霊写真展なんです。  幽霊あり、妖精あり、オーラあり、精霊あり、”思考写真”あり(心に描いた像をポラロイドで写すことができる。遠隔で撮影できる)、多彩な、息を飲む写真の数々が展示されています。そこはかとなく写っているぼおっと光るもの、という程度をはるかに超えた、くっきりと華やかに、あるいはグロテスクに写った驚異の写真の数々です。 大きく伸ばして壁にかけたくなる美しい写真もあります。
トリックも明かされています(それほど複雑なものではありません。多重露光によるものがほとんどです)(霊は、柔らかい布やカードボード、さまざまな材料で作られています)(ただし思考がプリントされるという例だけは、まだ解明されていません)。
心霊写真というものがあちこちに現れ出したのは、アメリカでは南北戦争の終わり頃、フランスでは革命後、なのだそうです。 心霊写真は戦争の後に多く出回る、つまり死者が多く出ると、大勢の人々が、死者と交信したくて、霊媒を雇って死者の霊を呼び出すということをやる、また、目に見えない霊の世界を見たいと願う、そこで心霊写真が大活躍するという次第です。 この頃は、レントゲンが普及し、電報ができた時期とも重なっていて、人の心が肉体の眼に見えないものに開かれていく準備ができていたとも言えるようです。
トリックがバレて、刑務所行きとなったカメラマンもいたそうです。 でも、死者を呼び出したその写真を見た大勢の人たちが、最後まで、トリックなんかじゃない! と彼の無実を主張したとのこと。  写真というものが発明されてまだまもない頃に、心霊写真が登場したというのはかなり面白いと思います。 大勢の人たちが、写真という新しい道具で、写実ということではなく、トリックを使って「作る」ことをやった。写真とは、作るものであり、それによって観る者にある世界の存在を信じさせるものなのだ、ということが、この写真展でよくわかります。
けれども、この写真群が見せてくれるすばらしさは、

1 愛によって撮られたものである。つまり人々の願いと祈りを、目に見える形で実現する、という心で撮られたものである。
2 たとえそれがトリックで「作られた」ものであっても、その作り手は、その霊が「事実存在することを知っていた」はずである。知っている、見えているからこそ、それを物体化したとしか考えられない。つまり、そこに映っているものは、その実在だけでなく、姿形のすべてが、真実のものである。
3 それはすなわちまた、誇張される前の、「そこはかとなく映っているホンモノの心霊写真」というものが、おそらく無数にあっただろうという想像も呼び起こす。
4 明らかに、写真は霊を形としてとらえるのに最適な媒体である。なぜなら写真は光をとらえるものであり、霊とは、光だからである。
写真という発明を得て、人間は、すぐさま、目に見えない世界をなんとか焼きつけようとした。そのために霊媒は、鼻の穴に大量の布を詰め込んで、それを引き出してみせる、といったことをした。その馬鹿馬鹿しさと、大真面目さに、打たれます。
これが、新しく入手した写真集 The perfect medium – photography and the occult です。

もう一冊、手元に Sleeping Beauty という写真集があります。こちらもほぼ同時期のアメリカの写真で、死んだ人のポートレート集です。 当時アメリカでは、家族、親戚が亡くなると、正装させ、ポーズをとらせて撮影し、額に入れて飾る、ということをやっていたそうです。 肖像画を描かせるのは一部の特権階級の人だけですから、庶民は写真を使って、愛する者の姿を永遠に留めようとしたのでしょう。 幼くして亡くなった子供は、母親に抱かれて写っています。目を閉じさせないで、レンズが視線をとらえる写真が多く、一見してそれが死体とはまずわかりません。
この、死体のポートレートは、やがてこの世から消えていきます。 死者に、このように生々しい存在感を与えるのはよろしくない、死というものは、ひっそりと闇に置かれるものだという観念がアメリカ社会に広がったからだと言われています。

この二冊の写真集の時代、写真機というテクノロジーは、目に見えなくなってしまったものの存在を、忘れずにいたい、感じていたい、コミュニケートしたい、という思いの丈を、実現するための道具になっていたようです。 そして、その写真の数々が、大勢の人々に、存在とは光であるということ、光は、自在に形を変え、場所を移動して自由に存在するということ、そして「それは呼べば来るものだということ」を見せてくれたのでしょう。   人間というものは、生きている間は、皆そろって盲目だ、と思います。

身体を持っていると、網膜がとらえる光の幻覚に惑わされて、右往左往してしまい、幻覚ではない実体を見る力をほとんど持たなくなります。
だから、心の目を開き、存在の実体を見る、あるいは垣間見るには、それなりの刺激が必要なのです。 快楽の装置が社会にあふれるほど、眠った目を揺さぶり起こすには、さらなる”衝撃”が要ります。 なかでも大きなもの、そして誰にでも等しく与えられている”衝撃”が「死」である、とは言えないでしょうか。 自分が迎える死もそうでしょうし、愛する人、身近な人(動物でも)を、惜しんで見送るという機会を持つ人、つまりわたしたちのほとんどが、恵まれていると言っていいのではないでしょうか。
盲目の目を見開く機会を、わたしたちは、肉体を使って、病を通して、老いを通して、または突然死、事故死を通して、分かち合っている、それが、死と向かい合うことではないかという気がするのです。 目を見開くための死という体験を、出来る限り、深く、大きく分かち合うこと、それだけが、死にゆく者、見送る者の務めではないかと思うのです。 「故人は最期の日々にこんなことを要求していた。叶えてあげればよかった」 「故人は悔いを残して死んだ。なぜ手を差し伸べてあげられなかったのだろう」 「わたしが死んで申し訳ない。残される者たちが不憫だ」  というようなことを、わたしたちは考えるわけですが、そのようなことに心がとらわれている時、実は、ほんとうに大事なこと、するべきことを逃しているかもしれません。
魂が肉体から離れるということ、死の瞬間とその前後は、人間が体験できるもっとも崇高な、つまり肉体の生命を超えたものを感得するチャンスではないかと、最近感じるようになりました。新しい写真集をめくりながら、その思いが確信に近づいています。
亡くなった祖母が絵のお手本にしていた星野富弘氏の画集に、こんな詩がありました。

いのちが一番大事だと思っていたら  生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日  生きるのが嬉しかった

祖母に続いて、この夏は、わたしのまわりでいくつもの魂が肉体を離れていきました。 秋を迎えた今、肉体の生命ではなく、魂という生命を、曇りのない目で見る機会が今、わたしたちの目の前に差し出されているという実感が、日々強まっています。