愛について 17

Make a commitment.  英語ではしょっちゅう口にされる言葉です。
そうと決めること。かたく決意すること。言い訳なし。dedicate (捧げる、献身する)とか、faith (誓約、信義)という言葉に似ているかもしれません。 「頭痛いな」とこっそりつぶやきたくなるのが正直なところですね。コミットしたつもりでも、うっちゃってしまう、または忘れる、ことが多々ありますから。
<忘れる>。  この人を愛そう、人のために尽くそう、と深々と思う日があり、自分を批判するのはやめよう、人を非難するのもやめよう、等々ときっぱり考える夜がある。なのに、忘れる・・・のですね。そのとき、なぜそのように、かたく、深く考えたのかを忘れるのです。
愛を見ようとしたのに、忘れる。見まいとしたものを、また見てしまう。  この、忘れる、という性質ほどうんざりさせられるものはないかもしれません。  人の名前を忘れる。歴史の年号が覚えられない。英単語が出てこない。そういうことは、「忘れるという能力に、実はわたしたちは守られているのだ」という脳学者の説に慰められてきましたし、「意識が忘れたと思っていても、実はわたしたちはすべてを覚えているのだ」という東西文化の賢者たちの教えもまた、そうだろうなと素直に受け止めてきました。

けれども、自分で決めたことを忘れるというのは、そういうこととは別ではないかという気がするのです。一昨日のランチに何をいただいたかということが記憶の彼方に追いやられて、代わりに、たった今収集しなければならない情報が、大事な記憶として集められてくるのは、たしかにありがたいことです。 でもわたしたちは、歯の磨き方を忘れないし、玉葱のみじん切りの仕方も忘れません。 苦労せずに覚え、習慣になり、まったく別のことを考えながら、自動的に歯を磨いたり、玉葱を刻んだり、できるのです。
覚えがいいのは、生活の必須事項だけではないでしょう。たとえば、新しく家族の一員となった猫の好物を発見して、それを忘れる飼い主がいるでしょうか?  ではどうして、「愛にコミットする」のをいくら繰り返しても、歯磨きのように身についた習慣にならないのでしょうか。気が散っていて、うっかりするのでしょうか。 でも気持ちをわざわざ集中しなくたって、歯は磨けますしね。 忘れるということは、きっと、はじめからコミットしていないということなのではないかと、今、思いました。

忘れているのではなく、もともと、覚えていないのではないかと。  実はまだ「心に決めて」いない。まだ未練がましくふたつの生き方に片足ずつをかけている。 だから、忘れるもなにも、はじめから「ない」わけです。  そんなはずはない。愛だけが大事だとよくわかっている。自分が欲しいものはこれだけだと理解している。 「愛という状態」をもっと知るためにこの地球に生きていると実感している。なにもない、わけはない。  そうだとするなら、答えはこれしかないでしょう。  愛に心が向かっているのに、同時に、それを恐れている。  だから、実はまだ心を決めていない。

わたしたちは、心の全体で思うこと、決めることしか実現できないのですから、心のどこかに恐れがあれば、当然、その思いはプラス、マイナス、ゼロとなり、はじめからなかったことと同じになってしまうわけです。  歯の磨き方を覚えようとするときに、心の抵抗を持つ人はいないでしょう。だから苦労なく覚えられるのではないでしょうか。  学生時代に英単語が覚えられなかったのは、試験のためと自分を叱りつけながら、実は「覚えてもしかたがない、無駄なことをしている」という気持ちがあったからではないかと、自分を振り返って思います。ニューヨークに住んで、たくさん英語を覚えたのは、理解したい、話したい、読みたい、という思いが全身全霊にほとばしったからだと思うのです。
ほんとうに願うなら、その願いは叶う、と言いますが、たしかにそういうことなのですね。 「神様に祈るとき、まるで自分の中の愛に祈っているような気がしている」。  以前このように書きましたが、これは、恐れず、ためらわず、抵抗せずに、心全体で、愛に従わせてくださいと祈っているわけなのです。

さて、たった今、神様と書きましたが、愛を考えていくときに、同時に考えなければならないのが、神についてです。 愛を感じるときに、わたしたちは同時に神を感じている、と言えると思うからです。    愛と同様に、神という単語もまた、わたしにとって、ひとことも理解できない外国語と同じ響きを持っています。神、と書くのは、実は、愛、と書く以上にためらわれます。神様と書いて、やっと日本語を扱っている気分になります。それならいっそ仏様というほうがもっと近しい感じがするにしても。
というわけで、つい神様に祈ると書いてしまったわけですが、こう書くと、神様という人格を持った存在がいるように見えてしまってよくありません。神に人格があるとするなら、その神を、科学や歴史をはるかに超えた英知として、絶対的な安心を委ねることは難しいと思うのです。 どれほどすぐれた人格であっても、人である神が、あやまちや気まぐれをおかさない保証はないし、こちらの一大事に、眠気を催していらっしゃる可能性だってあるからです。 なによりも、神に人格があるならば、わたしがよくないことをしたときに、必ずやわたしを罰するに違いなく、そんな「怖い人」に自分を委ねる勇気などわたしにはないからです。そんなことができる人がこの世にいるでしょうか?
ですから、全的であり絶対であり、完璧である神という存在は、人格を持つ存在であるはずがありません。神の声が聞こえた、と言うとき、それは神が発しているバイブレーションのことであって、パーソナルな声ではあり得ません。 神が自分だけに、何か良きことをそっと耳うちしてくれることはないのです。

したがって、わたしは、神様に何かをお願いしたり、自分だけに何かを特別に囁いてくれることを望むことはしません。そのようなことをしてくださる神様という人格は存在不可能だからです。そしてわたしは、神様とその存在を呼ぶわけにもいきません。 便宜的にでも、神という言葉で説明しなければいけない。たとえそれが外国語のようで、かなりの居心地の悪さを感じてもです。
さらには、わたしは「神が世界をお創りになった」という言い方もできないということになります。この言い方では、やはり神は神様になってしまうので。  では、代わりにどう表現したらいいでしょうか。  神がこの宇宙を創造したのではなく、神そのものが宇宙なのだとしたら、 「神が出現して宇宙となった」という言い方が可能だという気がします。だから「神は細部に宿る」のねと納得もいきます。  でも、神が出現する以前は何があったのでしょうか。  宇宙が生まれる前は、何があったのでしょうか。  神は、どこから現れたのでしょうか。    神以前、神の出現、その後。一見、理屈の通った問いに見えますが、このようなものの捉え方が、いったいあり得るでしょうか。 神以前という時間があるなんて、いかにもナンセンスです。 常に、永久に存在しているから、神なのであり、常に、永久に存在しているものを神と呼んでいるのではなかったでしょうか。    愛は名詞や動詞ではなく、形容詞なのではないかと以前書きましたが、神についても、動詞を使うわけにはいかないし(時制が存在しないから)、名詞を使うわけにもいかない(姿かたちがないから)。 だから神とは「永遠の」「全能の」「動いていて」「毎瞬、宇宙の調和を創造していて」「生命が伸びていて」「愛が起こっていて」「明るくまたたいて」いるもの、というようにしか表現できないのではないでしょうか。  愛は形容詞。  神も形容詞。  名詞と動詞では、愛も神も表現することはできない。  よって、自分自身に関しても、名詞や動詞で表現することはできない。
わたしとは、だから、「フランスのワインにほろ酔っていて」「愛について考えていて」「夏の終わりの夜更けの、樹々のざわめく音に耳を傾けながら、何かを惜しむような気持ちになっていて」「昼間、小学生を相手にバレーボールをやって陽射しをさんざん浴びた、その火照りがまだ残っていて」「ロングアイランドからメールをくれた人の、今夜の安らいだ心とやさしい愛を感じていて」「大阪からメールをくれた人の誕生日を、なぜだか彼女にとって、とても大きな分岐点のように感じていて」「宮沢賢治全集英語版初版を買うかどうか迷っている」夜を過ごしている、存在のことです。 一時間後のわたし、明日のわたしは、別の存在になっているはずです。当然です。明日の午後一時に酔っ払っていたくはないですから。 生命の力と、愛と、やさしさを感じている存在であってほしい、そのようにあろうと、「心に決めて」います。忘れないことを祈っています。

最後に宮沢賢治から一節。
「覚者の善は絶対です。それは、マグノリアの木にもあらはれ、けはしい峯のつめたい巌にもあらはれ、谷の暗い密林も、この河がずうっと流れて行って氾濫をするあたりの度々の革命や飢饉や疫病や、みんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善で又私どもの善です」(『マグノリアの木』)

この三行は、まさしく、神と愛を表しているひとつの形容詞になっていると思います。