愛について 15

まだ学生の頃、インドに旅した友達に、鈴のついた銀のアンクレットをもらいました。当時はアンクレットというアクセサリー自体が、日本では珍しく、わたしは多少得意にもなり、また素敵とも思って、ひと夏をアンクレットとともに過ごしました。足もとでかすかに鈴の音がするのが、くすぐったいような感じだったのを覚えています。
わたしも、友達も、鈴のアンクレットが実はどういう意味を持つものか、知らなかったのです。  鈴のついたアンクレットは、もともとは、恋の病にかかった人につけられる印です。「この人は狂気にとらわれています。何をするかわかりませんので、気をつけてください」という意味なのでした。  中央アジアの人々は、恋=狂気、と、とらえていたのですね。

ひとめ見た途端に、その人の「とりこになる」ということがあるようです。わたし自身は、そこまでの経験はありませんが、全身を電流が駆け抜ける感じ、胸がきゅうっと締めつけられる感じ、心臓が止まるかと思うような瞬間、はたまた心も身体も溶けてしまうような、というのは、わかります。  日本にはない表現ですが、お腹から蝶がたくさん飛び立つような感じ、とも言います。
その相手は、たまたまパーティで紹介された人であったり、通勤電車で見かけた人であったりすることもあり、職場で毎日顔を合わせる人という場合もある、つまりあらゆる状況で現れるもののようです。  そんなとき心に思い浮かべるのは、もう一度会いたい、なんとかして話をしたい、触れたい、というようなこと、「あの人を知りたい」「あの人が欲しい」ということです。そして次の瞬間には、「あの人でなければダメだ」という断固とした思いにとらわれるものですね。
一目惚れでなくても、このような執着はあるでしょう。すでに過去の関係となった相手に対して、その後何年たっても、「やはりあの人でなければ」と苦しむこともあるようです。
ケミストリー、という言葉をよく耳にします。 「あの人との間にはケミストリーがあった」 「彼はいい人だけど、ケミストリーを感じない」  というように使われ、相手と自分の、生活上のさまざまな面での相性などはもはやどうでもよいこととなり、その”ケミストリー”にすっかり魂を奪い取られたかのごとく、執着してしまいます。  そのように、「あの人」をあきらめきれず、「あの人」を追いかけ続ける、<愛の狩人>の、なんと多いことでしょうか。

以前、道成寺、清姫の逸話をご紹介しましたが、あの清姫がまさに<愛の狩人>であり、狩人として人生を全うした、あるいはより正確に言うならば、死に向かって全速力で突っ走った好例のひとつでした。  狩人とは、死を目指して走る人のことを言うのです。なぜならば、狩人が追うものを手に入れることはほとんどないからです。万が一、手に入れたならば、もはや狩人ではなくなり、つまり「今の」自分は死ぬからです。  また、狩人にとって、追うものを手にいれることだけが真のリラックスになるので、追うときの緊張は最大限にまで高められ、その解放は、文字通りこの世のものとは思えないほど強いものになるので、解放=肉体からの解放=死ということになるのです。  ただ、ほとんどの狩人は、清姫のようにためらいなく死に向かって疾走することはできません。臆病者だからでも、欲しいものに対する執着心が薄いからでもなく、わたしたちのほとんどが、徹底的に醜く、恥ずかしい存在になって標的を追いかけ、自滅することが叶わない唯一の理由は、生きる力から逃れることがどうしても不可能だからだと、わたしは思います。
死へ向かう誘惑があっても、生きていく力、生きようとする力は、あまりにも強いのです。もっと正確に言うならば、愛は、生きていく力のほうに属するものなので、というより愛とは生命力そのものなので、それに逆らって自滅の道を進むのは至難の技なのです。  その証拠に、狩人は、思いもよらない能力を発揮します。毎日ジムに通って身体を鍛え、正しいダイエットに励み、よく学び、美術館に足を運び、旅行をし、内面を豊かに育てます。仕事上の試練にも見事に耐えてみせます。資格試験に合格します。
これらは全部、「あの人」を手に入れるそのときのために成されること、「あの人」の愛を得るための努力なのですが、実のところ、愛というものは、そのような事柄で決定されるものではないのであって、本人も実はそのことはわかっている。努力のすべては、実は、好きになれる自分になる、そのためだけにあるわけです。狩人は、標的を追いかける情念の炎を、醜くなることではなく、反対に美しく自分を育てるために「使ってしまう」ものなのです。  好きになれる自分になりたい。そのように切実に思っている人が、狩人になるのかもしれません。
誰だって自分を好きになりたいはずだ。それはそうですが、今の自分をそのまま受け入れ、愛せる人は、狩人になって何かを追いかける必要はないでしょう。あれこれ努力して自分を変える必要もありません。狩人でなくても、身体を鍛えたり、勉強に打ち込んだりするでしょうけれども、それは、自分を変えるためではなく、自分が楽しむため、豊かさや健康を維持するためなので、目的も、それをやっているときの心の状態も、まるで異なっているのです。
恋心をバネにして、自分を鍛える。自分を変える。おかげで健康が増進し、昇進もしました、と胸をはっても、肝心の恋は実っていないかもしれません。恋は、そのようには成就しないからです。ケミストリーとはそれほど論理的なものではないからです。お腹に筋が浮き出て、あるいはダンスが上達してモテるようになっても、理想のうるわしい恋愛が得られない。繰り返しますが、愛の狩人は、目的を果たせないものなのです。単純に、愛は獲物にはなり得ないからです。  自分を好きになりたい。今の自分を好きになれない。そんなとき、人は愛からもっとも遠ざかります。愛を求めることはできても、愛がやってくることはありません。  つまり、自分を好きになるために、力を発揮し、何をどんなふうに努力しても、「あの人」は得られない、愛はやって来ない、「満足できる自分にはなれない」のです。

ではどうしたらいいのでしょう? 自分に不満があるうちは、幸福な恋愛はできないというのなら? わたしたちは、誰だって、自分に不満があるものではないか? それでも愛とともに生きている人もいるではないか?...  わたしが学んだ答えはこうです。  愛されたい、あの人が欲しい、という自我(=求める意識)ではなく、  ひたすら愛する、愛に感謝する、という魂(=与え、満足する意識)とともに生きること。  これだけが、あなたを守る。  あなたを、愛の存在にし、愛を惹きつけ、愛に生きる人にする。  あなたを、真にあなたらしく、輝く存在にする。

わたしたちが与えられている生命力、愛の力は、とてつもなく大きいと感じます。わたしたちひとりひとりの日常は、たくさんの愛に支えられています。そして休むことなく心を突き上げてくる情熱のようなもの、一時も止まってくれない、落ち着きのないエネルギー、これはすべて、宇宙に満ち満ちている愛の波だと感じます。特に敏感になっているときなど、わたしは、この間断のない愛の波に、ほとんど圧倒されてしまいます。逃げたくなる、怖くなる、自分はとてもこの波には乗れない、と思ってしまうことも、正直言ってあります。
でも、逃げられないのはわかっているから(宇宙全体が愛の波なら、どこに逃げ場があるでしょうか?)、そして休むこともできないとわかっているから(波に放り出されてやみくもにもがいても苦しくなるばかりで、ほっと息をつくには、次の波に乗って素直に揺れるほかない)なんとか面をあげるのです。  宇宙とは、この愛の波のことだ、とわたしは理解するようになっています。安らぎたかったら、この愛の波の頂きで、休むしかありません。それができないとき、わたしたちは、一直線に正反対の方向へ、死へ向かう狂気にとらわれるしかないのです。
わたしたちは、理性とか、分別と言われるものに支えられ、平静を装って日常生活を送ることもできますが、心を正直に見つめるならば、愛に浮かんでいるか、狂気にとらわれて暗闇を探っているか、常にどちらかの状態なのではないかという気がします。  だからわたしは、愛から逃れることはできないのだと、覚悟を決めています。宇宙を満たす愛のエネルギーが、どれほど豊穣で、ついていけないと感じても、あるいは圧倒されてしまって足がすくんでも、ときに、心臓が止まるかと思うような電撃的な瞬間に遭遇しても、そこから逃げることはできないのだと、降伏しています。
愛とはエネルギーそのもののことなんだ、とわかったときに、わたしは、自分のなかにもそのエネルギーが豊かに流れていることを知ったのです。それでようやく、自分を認めてあげてもいいと思えるようになったのです。というより、好きになるべき自分、などというものはもともと存在しないのだと感じるようになりました。  ゆっくりと、愛を、狂気ではない、正しく自然な方向に使えるように、なっていきました。さらに、正しく使い続けるには、注意深くなくてはいけないということも、わかるようになってきました。
今のわたしにとって、愛とは、注意深くあること、そのものです。  祈りです。  愛する人を、愛をもって見つめるとき、それは祈りのときと言えます。  この愛を、わたしがひたされている愛の波を受け入れることを、どうぞ助けてくださいと、怖じ気づかず、強張らず、波にすっかり身を任せられるようにと、祈っています。