愛について 14

溶けてしまいそう。
という感覚を経験したことのある方は大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
それでは、  ああ、ほんとうに溶けてしまった。  という感覚は?

イスラムの教えに、こんな逸話があります。
男が、長老の家に行って、愛の話を聞かせてくださいと言いました。  長老が、愛について語り始めると、男はみるみる溶けてきて、しまいに床に広がる水になってしまいました。  そこに男の友達が入ってきて「友人が来ているはずですが?」  長老は、水びたしの床を指して、「ここにいるよ」。
この話は何を伝えようとしているのでしょう。  男は、愛の話に耳を傾けています。  その愛の話は、ゆるやかに、やさしく、心に染み通っていったことでしょう。  長老の声が、自分のなかにある愛の場所に届いて、その場所が、ふんわりと膨らみはじめるのを感じたことでしょう。  愛とともに、自信、安心感、穏やかさといったものが、軽やかな波動となって広がっていき、不安や弱気がすうっと遠のいていくのに気づいたことでしょう。  同時に、波動の重く荒い部分、固い、ぎこちない部分が消えていき、つまり身体感覚が遠ざかってしまったことでしょう。  すっかり溶けて、水になったとき、彼はもはや、「ああ僕は水になってしまった」などとは思わなかったのではないでしょうか。「僕」という概念さえ、どこかに溶けて消えてしまったに違いありませんから。

イスラムの神は「私はあらゆる生命を水から創造した」とおっしゃっているそうです。 つまりこういうことですね。
「愛するとき、わたしたちは、溶ける」  あるいは、  「愛するとは溶けることである」  そして、溶けるとは、  「身体感覚がなくなる」  「自意識がなくなる」  「時間の感覚がなくなる」  ということである。

逆から見てみると、 1 身体の感覚があって、(形、重み、暑さ寒さ、空腹や満腹感、乾きや飢え、疲労感、痛みやかゆみ、等々)
2 自意識があって、(自分はこれでいいのか、あの人は自分をどう思っているのか、あの人に何をしてあげられるか、あの人が悪いのか自分が悪いのか、等々、自分に対する判断、相手に対する判断がある、自他を区別する意識がある)
3 時間の感覚がある(ついに平和と愛を感じられるようになるまで頑張らねば、という感覚)  とき、わたしたちは、愛のなかにいないのです。  愛を求めて、または本来の自分の姿に戻ることを求めて(神様は水からわたしたちを創造したそうですから)、苦しんで、身悶えている状態です。

このようにも言えます。  男は、長老の愛の言葉を聞いて、溶けていったのですが、彼を溶かしたのは長老の愛ではなく、その愛の言葉につながって、自分からあふれ出た愛でした。
勘違いしやすいのですが、わたしたちは、愛されることで溶けるのではなく、愛することで溶けるのですね。
今まで会ったことのないような素敵な人が現れて、自分を上手に甘く溶かしてくれるという夢想や、世界中で、あの人しかわたしを溶かせる人はいないという切実な想いは、勘違いというわけです。  わたしたちは、自分が愛することを許す人/ものの前で、溶けるのです。  あの人だから、あの日あの時、わたしは甘ーく溶けた、のではなく、あの日あの時、わたしはその人に自分を完全に開いた、ということなのですね。
愛の言葉は、わたしたちが耳を傾けさえすれば聞こえるものだということも言えます。  あらゆる生命が水からできていて、その水が、愛そのものであるならば、世界中のあらゆる生命は、自分をすでに愛しているのです。

江本勝氏は、愛しているよと声をかけると水は美しい結晶を作る、ということを示してくださいましたが、それは、わたしたちが水を愛すると、水が応えてくれるということではなく、水はいつもわたしたちを愛していて、わたしたちがそれに応えるとき、わたしたちは、はじめて水の美しい愛に気づくということなのではないかと思います。  そして、わたしたち自身もまた、実はいつも愛している存在ですから、自分のなかのその愛の力と、相手の愛の心とつながることで、ときにはとろとろに、ときにはさらさらと、溶けていくことができるのだと思います。
わたしは毎朝、ヨーガと瞑想をしますが、スタジオの天窓から差し込む明かりに包まれて、マットに身体を伸ばしていると、この、溶ける感覚がやってきます。スタジオにエネルギーが満ちてきて、そのなかに抱きとめられ、ゆっくりと溶けていくひとときは、欠かしたくないかけがえのないものです。
住まいの目の前が公園で、ひときわ大きな樫の木があります。その目の前に座ってしばらくじっとしていると、似た感覚が訪れます。  南の島の海岸に寝そべって、強い陽射しを全身に受け、波の音に耳を傾けていると、わたしは完全に溶けてしまいます。  リーディング・セッション中にすっかり溶ける瞬間があります。目の前にいる人とつながるというよりも、相手のエネルギーのなかにすっぽり入り込んでしまい、あまりのまぶしさ、美しさ、心地よさに一瞬、我を失うことが、実を言うと、あります。  そして、樹々や大海原や陽射しのなかで溶けていくのもいいけれど、深い印象を刻まれ、力となり、真に愛の栄養となるものは、やはり人との間で起こる「溶解」だなあと、しみじみ、思うのです。
わたしたちは、生まれてしばらくの間は、いわゆるセンス・オブ・ワンダーと共に生きています。 見るもの聞くものすべてが新しく、驚きに満ちていて、起きている間中、この世界のさまざまに夢中になります。はじめて蝶を間近に見るときの感動、はじめて雪景色を見るときの感動、はじめて泳げるようになったときの感動、それらの感動は、溶けるというよりも、自分が弾け飛んでしまうような、鋭利なナイフがひらめくような感覚と言えるかもしれません。
それからまたしばらくは、恋とともに生きる季節がやってきます。誰かに恋い焦がれるだけでなく、恋愛中は、音楽や物語、すべてのものに、甘くて、痛い、ふかぶかとした感動を覚えるものです。心が、スポンジのようになんでも吸収してしまう状態が生まれます。  この、無防備で傷つきやすい思春期から、さまざまな感情経験を経るなかで、自然に性愛を含む関係が育っていくなら、その人は、「しあわせな神の愛人」と呼べるだろうという気がします。たいていは、わたしたちは、もう少し込み入った、”不健康”な、痛みを伴う性感覚を持っているものですから、それほど自然にはいかないかもしれません。
けれども、この、肉体をぞんぶんに使い、五感を利用して、愛を、つまり「溶ける」経験を真摯に求め、受け止めるなら、今度こそ自然に、肉体や五感に頼らなくても溶けることのできる愛の力が育っていくのではないでしょうか。  そのように、愛を育て、磨いていきたいものとわたし自身は思っています。五感をすっかり閉じて、自分が溶け出すのを見守る、水のなかに紛れていくのを見守る、という感覚は、今のところ、瞑想を通して磨いているところなのですが・・・。