愛について 13

前回は、愛という言葉について、少し考えてみました。
愛という言葉の意味は、形容詞で表してみると、わかりやすいかもしれない、形容詞を使うと、動詞、名詞で表現するよりも、ずっと愛の本質に近くなるのではないかと考えたわけです。  愛とは、ときどき「やわらかく」、あるときは「鋭く」、「どきどきするような」こともあるし「くったり溶けてしまうような」感覚にひたされることもある、変幻自在、万華鏡のようなものなのかもしれません。我を忘れる激情にかられるときもあれば、ぽかぽかした日なたでうとうとしているような感覚のときもありますね。
そしてわたしたちは、その愛が、変化に富み、豊かな色彩を見せてくれるものであることを、要求しているように思えます。それは当然とも言えます。
ぽかぽかした日なたでうとうとするのは間違いなく最高のひとときですが、四六時中それをやっていたいと思う人はいません。逆に、そんな無駄な時間は要らないっと言い切る人もいないでしょう。わたしたちは、たまには、そんなふうに午後の惰眠をむさぼってみたいのです。そして別の時間には、何かに情熱をかけて没頭したいと思うのです。

ゆったり、のんびり構えている彼の存在は、自分の心が落ち込んでいるときには、ありがたく、心安らぐ。ところが、自分に元気が出てきてみると、悠然とした彼の姿勢が、頼りなく、情けなく感じてしまう。
逆に、いつでも溌溂として、元気いっぱいの相手は、こちらが元気であれこれと忙しい日々を送っているときには有り難い同志と思えるが、ちょっと慰めがほしいときには、なんて不器用で人の心がわからないヤツ、と腹が立つ。
あるいは、相手は常に変わらず、愛にあふれた、心やさしい恋人なのに、何が不満かいきなり相手を責め立てる自分、そのかけがえのない愛の分かち合いを壊そうとする自分が顔を出す。それもただ、生理前だから、というだけの理由で。
こんな、わがままという以上に、あきれ果てた自分を経験したこと、そして深い自己嫌悪に陥ったことはありませんか。
その自己嫌悪の大海を、百万回漂い、沈み、揺られてきて、今、わたしが思うのは、まず、「それでも、いつでも、許されてきたのだな」ということです。どんな醜態をさらしても、わたしを蔑みの目で見た人はいませんでした。泣き濡れて、疲れ果て、やっと回復した食欲に、付き合ってくれなかった人はいませんでした。あなたはわたしのことがわかっていない、あなたにはわたしがわからないと、どんなに自分が主張しようと、わたしは、実に、真に、受け止められていたのだなと、今ならわかります。

これは、ほんとうに、驚くべきことです。育った環境、受けた教育、価値観、性格などのあらゆる違いがあるにも関わらず、しかも、自分のことを理解しろと言い募るその自分が、混乱の極みにあるときに、丸ごと受け止めてくれる人が存在するということは。そして、受け止めてもらえたのが、別にその人が特に「できた」人だったからというわけではないだろうということは。
なぜあの人は、あのとき、わたしを受け止められたのでしょうか。彼が、飛び抜けて器の大きい人だったからではなかったとしたら。わたしが、抜群に秀でた人間ではなく、お金持ちでも絶世の美女でもないことがはっきりしているとしたら。
答えはひとつしか考えられません。それは、拒む理由がなかったから、ということだと思います。
相手を責め、非難し、自分は不幸だと主張する。そのようにわたしが披露した「悪徳」のあれこれは、ただ見逃され、青空にぽかりと浮かんだ小さい雲のように、いつのまにか消えていて、邪気のない部分、つまり空そのものだけが、彼の目に映し出されていたからに違いないのです。
わたしたちは、雲を楽しみます。その形を、形の変化の様子を、陽射しを受けて色づく様を、流れゆくスピードに、注目します。空一面が雲に覆われて気圧が低くなると、少しくったりした気分になったりもします。  けれどもわたしたちは、空に浮かぶ雲を、恐れることはありません。理由はもちろん、雲はまもなく消え去るとわかっているからです。
わたしは、いくつもの雲を作り、こねまわして形を変え、そこから雨を降らし、ほらご覧なさい、ここは雲に覆われた、暗くて湿って暗い場所よ、と相手に見せつけていた。でもその相手は、姿を見せると思ったそばから消えていく雲ではなく、その向こう側の空の深さ、広さ、明るさ,確かさのほうを見ていたのです。
そして、わたしのほうはと言えば、雨をさんざん降らせたその湿地に、早くも水草が、目の覚めるような清々しい緑色を艶やかに光らせているのを発見してびっくりしたりしているのです。
わたしを突き動かしていたものは、生理前のホルモンの具合でも、いつまでも引きずっている過去の悲しみでも、自分の罪深さでもなく、湿地に生える水草の緑を見たいという切実な願いだったのかもしれません。
空の確かさがわかっていればそれでいい、という相手に、いいえ、わたしは湿地も、洞窟の暗闇も、稲妻の閃光も、乾いた平原に舞い上がる土埃も見たいのよと、伝えたかったのかもしれません。
地上から空を見上げる人がいるなら、上空から地を見下ろす人もいます。彼が空を見つめているとき、わたしは大地の多彩な姿を見ようとしていたのかもしれません。
彼は空を見つめ、見つめることによって空を支える。
彼女は大地の変幻自在な姿を、次々と見つけ出し、見つけることによって、大地をより豊かに創造していく。
空と大地は、それぞれの鏡。
最近、まさにそのような、空と大地を照らし合うカップルに出会ったのです。それでわたしは、自分がかつてしていたことが何だったのかに気づかせてもらいました。
わたしたちが、混乱し、怯え、抵抗し、やさしい愛の場所を、非難と孤立に仕立てようとするとき、実は、ほんとうにしていることは他にあって、それはたとえば、地上に現れ得るあらゆる顔をひとつも見逃すまいとする生命力と好奇心の放射ということだということを。  そのように理解するならば、孤立の経験は、必要なものではないということがわかります。
大地の美しさを分かち合おうとするときに、どうしていつも、お互いを怯えさせる嵐を引き起こす必要があるでしょうか。
なぜ、「弱さ」に頼り、「弱さ」を使って、愛を見ようとしなければならないのでしょうか。  恐怖心、罪の意識、怒り、非難、批判、欠落感、不完全さという感覚、等々の心の状態は、それらと闘い、あるいは無視して払いのけようとするべきものではないのです。それらの、苦しい感覚の奥には、かならず、厚い雲や雨や嵐の後に姿を現す豪奢な世界を創造しようとする元気いっぱいのエネルギーがうずくまっているはずなのです。

自分がどれほど美しい世界をクリエイトしたがっているかということに、わたしたちは気づくべきだと思います。そして、誰よりも先に、自分がそのことに驚くべきだと思います。それほどの力と欲望とを持っているという事実に対してです。
そして、自分の力と欲望が、何を創造し続けてきたかということを、ちゃんと目撃するのは、もっと大事だと思います。その世界が太陽の光にあまねく照らされていたこと、つまり、どの場所も、虹の七色を基調にした色彩で讃えられていたことを、自分の眼でしっかりとらえるということです。
自分がしたことを見る。  自分が生きている証拠を目撃する。  人生のすべてを、自分の鏡として観察する。
「虹色の」「新しい」「力強い」「元気な」愛の姿は、そのようにして実感されるものではないでしょうか。