愛について 12

愛とは何か、よくわからない。これは愛か? と問われて、そうだと答えるけれども、なぜそうなのか、はっきりと理解できていない。
あれは愛か? ときかれて、いえ、あれは勘違いでしたと答えたあとで、はたしてそれだけだったろうかと首をかしげる。

この曖昧さを突破する勇気を持ちたい。そうすれば、視界がくっきりと晴れて、人生の、はたまたこの宇宙のすみずみまでを見渡せるのではないだろうか。そんな目論みで、このエッセイを書き始めたわけです。

愛とは何かを考えるために書いていて、けれどわたしは、臆面もなく、繰り返し愛という言葉を使っています。それはちょうど、英語の本を読むときに、わからない単語が出てきても、いちいち辞書を引く代わりに、文脈から推測して、読み進んでいく、という方法をとるのとまったく同様に、愛という単語の意味は、はっきりとはわからないまでも、文脈から推し量れる「〜のような感覚」として、愛という単語に出会うたびにつかまえるその感覚のさまざまを蓄積していきたい、その蓄積の結果、これという意味が浮かび上がってくるかもしれない、という気持ちからでした。

愛の感覚をもっと集めてみたいと思います。
アフリカに、形容詞しか存在しない言語を持つ人たちがいるという話を読んだことがあります。彼らは、「丸い」「白い」「高い」「光っている」といった形容詞を並べて、月を表現するのだそうです。「背の高い」「優雅な」「やさしい」「やわらかい」「微笑んだ」「ゆったりした」と言えば誰々さんのこと、という具合です。  この世界では、「月が上った」とか「月が欠けた」ということはないのです。動詞がないのですから。つまり、過去形、現在形、未来形、進行形というものがない、時制というものがないのです。
この世界では、「これは月というものである」というように、名づける、ということをしないのです。名詞がないのですから。

動詞も名詞もない世界では、すべてはどのように見えるのでしょうか。 彼らの言葉をちょっと真似てその片鱗をうかがってみます。 「夏の到来。まぶしく光を照り返すカフェのひさしやビルの窓や、街路樹の葉の輝きに誘われて、ユニオン・スクエア・パークをぶらつき、市場で、大振りの桃と、新鮮なローズマリーとサワーブレッド、茎の長いひまわりを二本、買った。陽射しの匂いが、今もからだにまとわりついている感じ」  という日記風を、アフリカ式にやってみると、 「明るい、暖かい、まぶしい、あふれて、光輝く、香りのよい、緑の、おいしそうな、新鮮な、丸い、みずみずしい、やわらかい、甘い、開いている、黄色い、長い、包み込まれるような」  こんな感じでしょうか。
日本人としてのわたしの一日は、前のようになります。アフリカの部族だったら、同じ一日が、後のようになるわけです。

後にこの日記を読み返すと、前者だったら、ユニオン・スクエアと桃とパンとひまわり二輪をありありと思い出すでしょう。記憶力が良ければ、「あの晩は、ローズマリーをたっぷり使って鮭を焼いて、デザートにあの年はじめての甘い桃を食べたのだっけ。食卓に、友達にもらった手製の花瓶を置いて、ひまわりで飾って」という情景に思いを馳せることになります。
後者だったら、書きつけた言葉のすべてを、もう一度そのまま感じ直すでしょう。そして、「この瞬間、同じような感覚を、わたしは数えきれないほど持ってきた。明るくて、暖かくて、甘くて、やわらかいものに包まれて生きてきたんだなあ」と、しみじみとするかもしれません。  名詞と動詞で作成されている記憶と、形容詞で作成されている記憶の違いです。

もうひとつ、うんと昔の日記風メモを読み返してみます。 「XX君と森へ行った。雨が降っていて、二人とも帽子をかぶって何時間も歩いた。ずっとおしゃべりをしていた。若葉の匂いがしていた。夕方になって、雨が強くなって、大きな樹の下で雨宿りをしているときに、わたしたちはキスをした」
今、このメモを読み返しているわたしは、「XX君、なんてなつかしい。どうしているかなあ」「森っていうのは、そうだ、森林公園だ」「あれ? 森林公園てどこだっけ?」「帽子? ああ、伊勢丹でお母さんが買ってくれた、あの黄緑色の帽子ね。どこにいってしまったんだろ?」「覚えてる、これがわたしのファーストキスだった」等々と、とりとめのないことを思い返します。
わたしが、アフリカの部族に生まれていたら、この記憶は、ずっと明瞭なものになっていたと思います。このような日記になるはずです。 「涼しい。湿った。瑞々しい。ぱらぱらと。しみ込むような。つんとくる。煙ったような」  アフリカに生まれたわたしにとって、この日の愛は、涼しくて、湿っていて、瑞々しくて、ぱらぱらと音がしていて、しみ込むようで、つんとくる匂いがしていて、煙ったような感じだったのです。 この日のわたしには、愛とはこのようなものでした。相手が誰であるか、どこの森であったか、どの帽子をかぶっていたかということは、はたまた、はじめてのキスをしたとかいうことは、「愛の経験に貢献してくれた感謝すべき道具たち」であって、愛そのものとは直接関係はないのです。

愛を、動詞(時制)や名詞でとらえようとするわたしたちは、それらの言葉を使わずに生活する人々と比べて、愛の本質からはるか遠くに離れてしまっているような気がするのですが、どうでしょうか。
愛とは、過去から未来に連なるさまざまな行い(動詞)とは関係がない。  愛とは、名づけることのできないものだ。  愛とは、形容詞で表現されるものである。つまり、状態・性質・心情のことである。
愛を、このように理解することができるとしたら、愛というのは、特定の人物(あるひとりの名前)(ある特別なキャラクターの人)に固執することとはかけ離れているし、ふたつの肉体が何をするかということとも関係がないし、ある具体的なライフスタイルからも独立しているものだということになります。

すると、このようにも言えることになりますね。
ふたつの生き方がある。
ひとつは、動詞と名詞を大事にする生き方。 つまり、何をして (did – do – will do)、何を持って (had – have – will have)、生きるかということが大切とする人生。さらには、どれだけのお金を持ち、どんな社会的位置づけのなかで生きるかということに価値を置く人生のことです。
もうひとつは、形容詞で世界を見る生き方。 つまり、自分を取り巻いているものが、どんなふうに見えるか、自分がどのように感じているか、ということこそが、大事だと考える人生です。人生がどのように展開していくかということは、真に主観的なものであり、ならば、自分で、ものの見方を決めることができるとわかっている人生とも言えます。ここでは、人生がどのようなものであるかは、自分次第だということがはっきりしています。  責任を自分で引き受けている態度です。人のせいにしない。何にも責任を押しつけない。文句を言わない。非難しない。そういう甘えをきっぱり断ち切った姿勢です。

また、形容詞でものを見るとは、つねに現在形で世界をとらえるということでもあります。過去のことを思い出すときでも、「これこれのことがあった。楽しかった。なつかしい」と記憶をたぐり寄せるのではなく、「苦い、熱い、ひたされて、花の香りの、やすらかな」と思い出すとき、それは、たった今の感情として、蘇ってくるのです。
形容詞で表現されるものは、どれも主観的ですから、見るもの聞くもののすべてが、自分の心次第のものだということがはっきりしています。 すなわちこれが、愛に生きる人生です。
何をするか、何を持つか、ということではなく、愛という状態を経験し続けること「のみ」に焦点を合わせて生きる。そのように生きるならば、雨のなかでのキスのための帽子や、そのファーストキスを包み込む樹々の香り、といったもの以上の「大道具、小道具」が、自然についてくることでしょう。その道具には、結婚や子どもという形が含まれているかもしれないし、いないかもしれません。相手は大金持ちかもしれないし、逆にこちらのサポートを必要としている人かもしれません。けれども、どんな「道具」も、その愛にふさわしいもの、愛を育てるためのものとして、贈られたものではないかと思うのです。  誰からの贈り物?  天使から。またはホーリースピリットから。  わたしなら、そう答えたいと思います。

天使が、愛を飾る道具として贈ってくれたささやかな、または目もくらむような道具立てに、いちいち文句をつけようとは思いません。それに、愛の生き方をしたいと決めたからには、もうひとつの価値観を中途半端に引きずり込んで、せっかく天使が称えてくれようとしている愛をだいなしにしたくはありません。  ふたつの生き方は、はっきり分かれているようです。中間はないし、どちらも少しずつ、というわけにもいかないようです。どちらを選ぶかは人それぞれでしょうけれども、一度選んだことに「コミットしてみよう」とする意志は、忘れないでいたいと、わたしは自分に言い聞かせています。忘れそうになるときは、ただちに形容詞を羅列して、名詞と動詞であふれ返る心に愛の風を呼びこむようにしています。