愛について 11

前回に続いて、また書き換えをやってみます。

愛を生きるには、あなたが心にキープしているすべての価値観、ものの見方に問いかける意志が要求される。どのひとつを隠し、曖昧にしておくこともできない。 (『奇跡講座』より)

『奇跡』を学ぶには、という箇所を、愛を生きるには、に変えてみました。 この一節は、何を語っているでしょうか。 ひとことで言えば、愛は「楽ではない」ということではないかと思います。
第一に、正直でなければならないと言っています。隠したりごまかしたりしたままでは、愛は生きられないのです。この部分は自分でも見たくない、この部分は相手には見せない、というやりくりは、愛には通用しないらしい。
第二に、あなたは「あなたの愛しか生きられない」とも言っています。アナイス・ニンやフリーダ・カーロ、マリー・ローランサンやサラ・ベルナールの愛の生き方にどんなに憧れても、わたしが彼女たちの「ような」愛の体験、愛し方、感じ方をするわけにはいかないのです。さらには、愛する対象を自分で選ぶわけにもいかないのです。

まだ十代の頃、友達が、家庭のある、しかも外国に住む人を好きになり、勇気を振りしぼってお別れしてきた、という話を聞くことがありました。「じゃあ次のタクシーで行くね」と言った相手は、タクシーがやってきても、どうしても手があげられなかった。次のタクシーも。またその次も。何台も見逃してついに去っていったという早朝の別れのシーンを、深夜の喫茶店で自分もまた涙ぐみながら聞いていたことを覚えています。 そのときわたしは、「人は、愛する相手を選ぶことはできないんだ」という啓示とも言える思いにとらわれて、愕然としていました。涙ぐんでいたのは、友人のせつない想いに共感したからというよりも、この啓示に、ほとんど打ちのめされていたからです。

こういう人が現れたらいいな、こんな人に愛されたい、というように夢想したことはありません。けれども、この深夜の喫茶店以降、願わくば「無難な人を好きになりたいものだ」という望みと、「愛はそんなに都合のいいものではないらしい」という直観を同時に持つようになりました。 無難な人とは、単純に、自分の家族と似ていて、わたし自身と考え方が似ていて、わたしが欲しいライフスタイルに沿って共に生きられる人、云々・・・ということです。
そして、自分が、たぶん、そんな人を好きにならないのだろうという確信が、あったのだと思います。わたしはもっと、ごつごつした道を行くのではないか、曲がりくねった長い道に迷い込むのではないかという漠然とした感覚だったのでしょう。 つまり、自分には、もっと探索していかなければならない、隠れている自分がいる、と感じていたのでしょう。「心にキープしているすべての価値観、ものの見方を、わたしは問いかけることになるだろう。 わたしは、どのひとつを隠し、曖昧にしておくこともできないだろう」と、このときはっきり自覚していたと思います。 そしてそれは、わたしの性格がそうだから、というものではなくて、人間とはそういうものであり、誰ひとりとしてそこから免れることはできない、という「啓示」だったのです。

先日、マイケル・パウエルの映画 を観る機会があり、久しぶりにその「啓示」を思い出しました。
わたしはこの監督の Red Shoes が大好きで(題名が示すとおりバレエに関わる作品ですが、恋愛、芸術への愛、心というものの多様さ奥深さすべてが詰まっている傑作中の傑作です。ご存知ない方のために)、今回上映された Peeping Tom をとても楽しみにしていました。
父親が「恐怖と神経の関係」を専門にする学者で、主人公は幼い頃から父の実験材料とされて育ちました。寝ているところを父が照らす懐中電灯で起こされる。するとベッドをイモリが這っていて今にも自分に飛びかからんばかり。父は、その幼い息子の示す恐怖の反応の一部始終を撮影し、克明にノートする。あるいは隣の空き地でカップルが抱き合っているのをそっと覗く子どもを、父のカメラが背後でそっと観察する。当然、そんな幼年時代が、彼に立ち直りようのない性癖をもたらします。 相手に恐怖を与え、断末魔の表情を見せる、その一部始終をカメラに収めて、そのフィルムを鑑賞するという性癖、つまり殺人を犯すことなしには満足できない性癖に彼は苦しむことになります。
この作品は、ヒッチコックの Psychoと同年に公開されましたが、Psychoのほうが大成功を収めました。なぜならずっと単純でわかりやすかったから、そして Peeping Tom のほうが、ずっと暗く恐ろしかったからです。  幼い頃の心の傷が、ある耽溺を作り出し、そこから抜け出すのはなかなか難しい。難しいが、恐ろしいというのとは違います。マイケル・パウエルがえぐり出すのは、実はこの性癖の苦しみではないのです。
この主人公は、少年時、父からビデオカメラをプレゼントされて以来、撮影に魅せられ、魅せられる分、才能を発揮します。やがて映画界でフォトグラファーとして活躍するようになり、サイドビジネスで娼婦たちのあやしげなピンナップを撮る、という生活に入ります。
カメラを片時も手放さないのです。カメラを、映像を愛しているのです。「映像を愛してしまったので、苦しい性癖を、<隠したままにしておく>ことができなかったのです」。映像に対する愛がなかったら、彼の心の底にふかぶかと刺さった傷を、なんとかごまかし、なだめて生きていくことができたかもしれないのです。 愛があったために、彼は心のすべてを生き抜かなければならず、最後には自分でまわしているカメラの前で自分を殺すという結末を迎えることになります。
具体的には、彼はある女性を愛するようになるのですが、愛する彼女を、映像におさめるということを避けられずに苦しむのです。 カメラをまわせば、必ず、恐怖を見たいという欲望が湧き起こってきて、彼女を殺さずにはいられない。しかし彼女を撮るという彼にとっての「愛の方法」を避けることがどうしてもできない。それで彼は、まわっているカメラの前で、彼女の代わりに自分を殺すことになったのでした。
彼の愛は、肉体を殺すことはできても、愛そのものを殺すことはできなかったということだと思います。

愛は生命のことだったはずなのに、愛が死を呼ぶこともあるなんて、単純に、怖いなと思います。愛に導かれていくと、そこに死が潜んでいることがあるなんて。やっぱり、できれば無難な愛で一生を終わりたいものだと考えてしまいます。 けれども、自分の頭で、どのように願おうとも、愛はそれ自体で成長していくようです。まるで、頭脳や肉体のメカニズムとはまるで関係なく、愛は愛のみで勝手に成長し、自らをはばたかせて、しまいには肉体という枠をも超えて、宇宙に広がっていくかのようです。 どのように愛し、何を愛し、どこに向かって愛していくのか、それを決めるのは愛自身であって、わたしたちの思いや考えではないかのようです。
どれほど無難にうまくやろうと画策しても、人生の道ばたには、ねじれた体験、ゆがんだ捉え方、思わぬ刺激、偶然を超えた出会い等々が果てしなく待っていて、それらが愛を貫き、愛を育てていくのかもしれないと思えます。身悶えするほどつらいトラウマであれ、胸躍る出会いであれ、それらは愛にとっては良きことでも悪しきことでもなく、いいえ、たぶんすべてが良きこととして吸収され、よく消化され、豊かな滋養となって、愛を次へ、次へと押し上げていくのではないかと思います。
このようにも言えるかもしれません。
愛だけが生きている。 ほかのもの、心のなかにある考えや、目に見える体験や、ここで重みを持つ肉体は、ただ、愛のまわりにふわふわと湧き出した幻影に過ぎない。
だから、愛には降参するしかない。それが人生であって、そこに願うことがあるとするならば、<無難な愛を>ということではなく、<わたし自身ができるだけ抵抗せずに愛に従ってゆけますように>というふうになるはずです。
事実、人生でいちばん難しいことのひとつは、自分の好きなものに対して正直に好きだと認めることなのですから。わたしたちは、ほんとうに好きなことを見ぬ振りし、抵抗する性質を持っているようですから。
わたしは祈るとき、神にというより、自分のなかの愛に向けて祈っていると感じるようになりました。いったい今どの地点を、どこに向かって進んでいるのかさえ、ときにわからなくなる自分のなかの愛に対して、わたしはあなたに従っていきます、あなたがどこへ向かおうと、抵抗できないことを知っています、と降伏し、無私の気持ちを取り戻すことが、わたしにとっての祈りになっているような気がします。