愛について 10

生きるとは、ゴヤのファーストネームを知りたいと思うことだ。
と書いた詩人は、長い間、いわゆる鬱の状態にあって、そこから快復してきたときにこぼれ出た言葉がこれでした。
ゴヤの作品が好きだったなあ...そう言えば、ファーストネームを知らないなあ...ま、いいか、そんなことどうでも。 このつぶやきが、鬱の状態のはじまりです。本棚の画集をめくってみるとか、インターネットで検索してみるとか、そんな作業はとっても面倒臭くってできない状態です。

暑いなあ、窓が閉まってるもんなあ、稲葉さん、席窓際なんだから、開けてくれてもいいのになあ、気がきかないなあ。 この不平が、鬱の入り口です。元気な人は、窓際の稲葉さんに文句をつける前に、自分でさっと立っていって窓を開けてしまいます。鬱にあるとき、わざわざ窓際に行って窓を開けるというだけの行為が、山に登れと言われているかのように、つらいのです。 一本の電話が、なかなかかけられない。山積みの郵便物に触れることすらできない。そのどれもが、登山より疲れる大仕事に感じてしまう。 これが、精神科医に鬱病と診断される状態の典型的な特徴ですが、病名を与えられずとも、それに近い状態は、わたしたちの日常に「繰り返し訪れる」ものではないでしょうか。
ちょっと風邪気味かなとか、頭がなんとなく重いとか、首が凝っているとか、なんとなく食べ過ぎとか、そんな身体的な諸症状と同様に。 そして、首の凝りであわてて病院に駆け込むことがないのと同じで、心の憂鬱も、たいていは、小さいため息をなだめるようにしてやり過ごすのが、わたしたちの通常ではないかと思います。

ため息は、もちろん、疲労感が発するサインです。ところが、ACIM には、このように書かれているのです。
あなたは疲れているのではない。絶え間ない判断に、心がすり切れているだけなのだ。
絶え間ない判断。それは、いちいちの行動に「どうすべきか」と問うことであり、「こうしたら彼はどう思うか」を推し量ることであり、「どう考えるべきなのか」を模索することであり、五感がとらえるあらゆる物事を「これはいったい何なんだ?」と把握しようとする努力であり、「これはどう感じるべきなのだろう」と焦ることであり、「彼はどうしてこうなんだ?」と相手を批判することであり、「だめだ、そうじゃない!」と自分を叱りつけること、心のなかの、実に姦しい、声の嵐のことです。
わたし自身の小学校の入学式のことをよく覚えているのですが、体育館で全員が起立して、校長先生のお話を聞いている間、わたしは、お話も耳には入れているのだけれども、ほかにもさまざまな思い、考えが心で渦を巻いていて、それでわたしは、こうも考えているのです。 「こんなふうなのは、わたしだけなのだろうか」「ほかの人は、先生の話だけ聞いているのだろうか」「天井を見たり隣の子を盗み見たり、空気の匂いを嗅いだり、昨日のことやら式が終わったあとのことやらを考えたり、一度に、こんなにたくさんのことを<している>わたしはおかしいのだろうか。わたしは一生、こうやって<人の知らないところで>こうやって忙しく<している>ことになるのだろうか。だとしたら地獄じゃないだろうか。
確かに、おかしな小学一年生ですよね。あれこれ意味のないことを思いめぐらせていることを、人に知られることなく、隠れてしていることとして、つまり一種の秘密の行為としてとらえていたこと、それを続けていくなら地獄だと感じたこと、わたしはこの時すでに、無邪気さとは遠く離れたところにいたのだなあと思います。 同時に、この入学式以後、それほど一貫性があるようにも見えないわたしの人生には、実は、はっきりした目的があって、それに沿って自分は歩いてきたのだなあという気持ちも湧いてきます。

すなわち、「人に隠れて<している>」その忙しい行為を止めること、それを目的としてあれこれと旅してきたのではなかったかということです。 その方法のひとつが、たとえば本を読むことでした。本を読んでいるときだけは、夢中になれて、その秘密の行為を避けていることができました。 オートバイに乗ることが、次に来ました。アクセルを開け頭を低くして風を切っていくとき、一点を見てマシンをバンクさせコーナーを抜けていくとき、やわらかな空気に抱かれマシンが手足の一部となり至福感に包まれるとき、秘密は消えました。 「考える」自分がいなくなり、突如「考えない」真空に入り込むような感じです(パチンコ好きの人も同じことを言いますね)。
それから瞑想がやって来ました。本を読みふけっているわけでも、映画のスクリーンに釘付けになっているわけでも、オートバイで”カッ飛んで”いるわけでも、はたまたドラッグでハイになっているわけでもないのに、「頭のなかで密かに続いている忙しいことがすうっと消えてなくなる」という経験は、間違いなく、今までの人生での最高の瞬間のひとつです。 その高揚感、全身に漲るバイタリティには、夜ぐっすり眠った、というのとは比較にならない強さがあるようです。瞑想の、その状態は、「やって来る」ものなのですが、同時に、瞑想の態勢をとることで、それが「やって来られるように」準備できる、つまり自分でいつでもその状態を作り出すことができることがわかっているから余計に大きな力を感じるのかもしれません。

瞑想の練習が、毎日のメインの日課だった日々が長く続きました。 座っていると、それがやって来ることもあれば来ないこともある、というところから、座っていると、必ずそれはやって来るようになり、やがて一時間座っていなくてもそれがやって来るようになり、さらには、座らなくても意識の置き方次第でやって来る、と進歩していきました。
頭のなかで<している>ことをいかにやめるか。これが目的だなんて、変わった人生もあるものだ、という気もしますが、少なくともわたしにとって、その人生は事実だったし、切実でもあったようです。 意識が理解していなかったその目的に、魂が連れてきてくれたとしか言いようがありません。そして、頭のなかで<している>ことが消えていくとき、そこに現れるのが、まったく新しい世界であり、「このことを愛というのではないか」と思わずにいられず、だから、今までの道は、このため、愛のためだったのかと理解するわけです。 ゴヤのファーストネームを知りたいと思い、知るために動いて行くことのできる自分でありたいという願いを叶えるための。身体を、そのように使いたいという祈りのための。

それ以外の状態は不自然だとわかるようになりました。疲労を感じるとき、わたしは必ず、<不自然なことをして>います。 病気は、無理と我慢を<やめて>というサインです。心のなかで忙しく<している>と、つまり自分の心というものがあたかも存在しているかのように、そのなかに思いを閉じ込めている、そのなかに引きこもっていると、心がすり切れてくるのがわかります。いろんなことに、ぽつぽつと文句、不満が出てきます。

自分の心、などというものは存在しないということが、自然な状態にいると、わかります。心のなかでしていること、思っていること、考えていること、感じていることは全部、バレているのです。なぜなら、心とは、あらゆるものを抱きかかえた、ひとつながりのエネルギー体のことだからです。 それを思い出しているとき、わたしたちはやっとくつろぎます。隠したり、ひとりであれこれと忙しく思いをめぐらせ、忙しく物事を見極めていかなくていいからです。その状態が、愛ではないかと思っているわけです。愛することが可能状態と言ってもいいと思います。
「計画をたて、計画に従って忙しく生きているときに、突然めぐり来ること、それが人生だ」 とジョン・レノンは言いました。 「それが人生だ」を「それが愛だ」と言い換えられますね。

思わぬときに、思わぬ姿でめぐり来るのが、愛だという気がします。計画的に愛するとか、愛してみようとして愛することは、できないのではないでしょうか。 そして、思わぬこととは言っても、前述したように、それが「やって来られるように」準備することで、愛を「起こす」ことはできると思うのです。 「他の女の子たちは、バレエの練習以外にも<人生が欲しい>って言うの。わたしには何のことを言っているのかさっぱりわからない。バレエの練習以外に人生が存在すると思っているところが理解できないのよ」 と言ったのは、スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダです。1920年代のジャズ・エイジの中心ニューヨークで、売れっ子小説家の妻ゼルダは、モダンガールのファッションリーダーとして有名でした。アメリカで、髪をおかっぱに短く切った最初の女性たちで、フラッパーと呼ばれました。
毎日がパーティ。毎晩が火遊びの恋の駆け引き。ゼルダは、そんな空虚な日々を、バレエに魅せられることで脱出します。踊るときに自分がオープンになること、汲めども尽きぬ情熱が湧いてくること、すなわち愛することができると発見するのです。上記はその彼女の言葉です。 ジョン・レノンの言葉と同様、こちらも言い換えができますが、人生を愛に変えるのではなく、バレエを愛に変えて、意味が同じになります。 「愛の練習以外にも人生が存在すると思っているところが理解できないのよ」  これぞ、愛の達人の言葉ではないでしょうか。