愛について 1

CRSは、いわば「愛の学校」のようなものです。ごく大雑把に言えば、「愛」とは何かを、頭で知ることはできないという認識に、まずたどり着く、そして「愛」を実践することを通して「愛を経験する」訓練をしています。
一応学校の校長をつとめているわたしがこのように言ってしまっていいものかどうかわかりませんが、正直なところ、「愛」について、わたしはやっと学び始めたばかりだという気がしています。「愛」を感じる水路が、やっと開き始めた、と言ってもいいかもしれません。そういうわけで、「愛の達人」とはとても言えないわたしが、今、学んでいることを、みなさんとシェアしていこうというわけです。
愛とは、いわゆる恋愛のことではありません。
若いうちは、愛と言えばロマンスのことでしょう。ロマンスとは、愛ではないばかりか、愛とは正反対に向かうベクトルなのだとわかってくるまでには成熟というプロセス、つまり時間がかかります。

室町時代に日本にやってきた宣教師は、キリストの愛を日本人に説こうとして困惑したといいます。日本人にとって愛とは「愛欲」「愛執」「愛染」といった、キリストの愛とは似て非なるものをさす言葉だったからです。
そんなわけで、布教に愛という言葉が使えなかったので、違う言葉を探さなければならなかったけれども、「慈悲」では仏教用語になってしまうので、造語して、愛を「御大切(おんたいせつ)」と訳すことにしたそうです。
仏教用語と言えば、先にあげた「愛染」とは仏教用語で「むさぼり愛し、それにとらわれ染まること」の意味。「すなわち煩悩のこと」と仏教では片付けられてしまっています。

今わたしが、片付けられてしまって、と書いたのは、「むさぼり愛すること」つまりロマンスにおいては最高に違いないものを、煩悩というひとことで退けていいものか、退けることなどできるものか、という疑問があるからです。ロミオとジュリエットの物語は煩悩なのか。エロイーズとアベラールは? トリスタンとイゾルテは? スカーレットとレット・バトラー? ヒースクリスとキャサリンは? それにジョンとヨーコ。ランボーとヴェルレーヌ。ガートルート・スタインとアリス・トクラス。はたまた阿部定と吉蔵は?・・・・・

ここではまず、恋愛という「エゴイスティックな<愛>」をなんとか擁護できないか、歴代の恋人たちをエゴのなかに置くことなしにすませられないか、という立場で、愛の考察をはじめてみることにします。

友人が、「愛の詩集」をプレゼントしてくれたのは、高校二年生のときだったと思います。有名な詩の数々が二巻にわたって収められているアンソロジーでした。ひとりの男子生徒に夢中になっていたわたしに「今のあなたにぴったりだと思って」と、ある朝教室で手渡してくれたのです。
ぴったり、というのは、まさにそういうことなのでしょう。わたしはその数々の詩を、むさぼるように繰り返し読み、ひとつひとつの詩が伝える「愛」は、全身の細胞に染みわたっていきました。
なかでも強くわたしをとらえたのは、エミリー・ディキンソンの一節です。

あなたがわたしに触れた。
それでわたしは生きている。

わたしはまだ、触れるという経験をしたことがありませんでしたが、これが、事実ではないこと、しかし真実ではあることを、理解していたのです。
これは事実ではない。なぜなら、一度触れられた、その記憶だけで人は生きていけるものではないだろうから。
これは真実だ。なぜなら、事実、わたしは、
「あの人がわたしを見た。それでわたしは生きている」
のだったし、
「あの人がわたしに微笑んだ。それでわたしは生きている」
のだったし、
「あの人がわたしの名を口にした。それでわたしは生きている」
のだったから。

当時のわたしは、彼の視線をとらえるため、微笑みを獲得するため、言葉をひとつでも多く奪うため、よく全速力で走ったものでした。校庭を駆け抜け。お茶の水駅のプラットフォームを駆け抜け。新宿西口高層ビル群の谷間を駆け抜け。また国立の端正な並木道を駆け抜けたものです。ひとえに彼をつかまえるため、ひとめ会うため、ひとこと言葉を交わすためでした。そしてその目的が果たせると途端に、脚は震え、唇は乾き、顔に「ひきつり」が起こって、慌てふためいたものです。
ひとりの、他の誰とも違っている、ただひとりの人を見つめるために、その人に見てもらうために、わたしの脚は、それまでの子供っぽいもたもたした脚から脱皮して、いつでも準備万端のジャンプ力を備えるようになりました。喉にくぐもっていた言葉があふれ出て、日記帳を何ページでも埋め尽くしました。読書量は一日一冊のペースになりました。この愛を、この世界を、彼という宇宙を理解するための言葉を必死に欲していたからです。同じレコードを、毎日繰り返し聴きました。お風呂に入っているときも、家族と食事をしているときも、胸元から突き上げてくる情熱を、すべてそのメロディのなかに流し込み、そのビートに吸わせてしまいたかったのです。

彼と交わした会話は、「冤罪について」(当時わたしたちの通っていた高校に冤罪事件が発生していました)「マルクスについて」「サルトルについて」「日米安保条約について」「ベトナム戦争について」「大学進学のこと」「将来の夢」(わたしたちは受験生でした)「ジョルジュ・バタイユについて」「ゴッホについて」「リルケについて」「三島由紀夫について」「性について」「ピンク・フロイドとマリワナについて」「ローリング・ストーンズについて」といったものでしたがでは二人の間にコミュニケーションがあったかというと疑問です。わたしは彼へ向かう情熱を持て余し、その矛先をこれら膨大にして手強い世界へ向けることで、なんとか処理しようとしていたに過ぎないと言えます。あるいは、まだまだ理解の及ばない世界に、未熟な情熱を投影していたのでしょう。
それでもなお、このイリュージョンを、愛ではないとは、わたしにはとても言えません。

当時のわたしにとっては世界にただひとりのアイドル、実際にはまだ首筋の細い少年と青年の間にいる存在を「自分の幻想に引きずり込むことによって」、わたしはなんと多くのものを自分のなかから引き出したことでしょうか。
この幼い自分の狂態を、真実の愛とは何の関係もないと言えないどころか、真実そのものだと思えます。ひとりよがりのイリュージョンの世界のなかで、ひとつの生命があかあかと燃えているのが目に見えるようです。

あなたがわたしに触れた。
それでわたしは生きている。

そう、「愛とは生命である」のかもしれません。
心が幻想に一直線に走るとき、または走っているときでさえも、生命は燃え立つものなのですね。わたしは、恋をして、「やっと自分が生まれた」と感じたくらいです。もちろんそれは勘違いなのですが、赤ん坊として生まれ、いくらか年を経て、このようにイリュージョンに包まれて生命を震わせるのは、ごく単純に、健康な、つまり素直なことではないでしょうか。薔薇の茎が刺を作りながら伸びていき、ときが来れば自然に蕾が開くのと同様に。そして素直に自己の自然を生きているとき、たとえそれが無自覚のものであっても、そこには愛はないでしょうか。

ニューヨーク在住の著名なカウンセラー、バーバラ・シェールはこう言っています。
「どのみち、更年期までの男女は、種の保存の本能つまりホルモンの働きに支配されているだけのことだ。思春期が来れば、できるだけ大きな肉のかたまりを持って帰る男、できるだけたくさん子供を生む女を探し始め、最高の配偶者を獲得し、子孫を作り、社会的地位を築き、つまり安全を確保しようとする、それがホルモンのなせる技である」
「だからそうした競争から降りられるとき、つまり競争に参加資格のなくなるとき(更年期)はじめて人は真に主体的に生き始めることができる」
というのですが、それはもっともとしても、ホルモンその他の身体的なものに支配されて生きるうちにも、愛はあるとは言えないだろうかとわたしは思うのです。
それとも、ホルモンのなせる技を自分の主体的行為と勘違いして、恋というイリュージョンにひたっているうちは、愛は存在し得ないのでしょうか。思春期の恋煩いなどはただの発情に過ぎないのでしょうか。
今の時点では、わたしにはわかりません。この設問自体が正しいかどうかもわかりません。愛の輪郭にあと一歩近づくためには、「愛の体験」をもう少し追っていく必要がありそうです。