正史。それから、叛史。

このふたつの言葉の発明者は、船戸与一さんでしょうか。わたしは彼の著書でその概念を学んだのでしたが。

正史とは、表面にある、みんなが、「これが、自分たちの歴史だ」と思い込んでいる歴史のこと。そして、その歴史は「強い者が勝つ」というただひとつの論理によって編まれ、人々が、無邪気に受け入れているもの、と、氏は書いています。

叛史とは、正史から意図的に排除された歴史、正史から見るなら影の歴史、自分たちに叛く歴史であり、そして叛く側、影の側から見るなら、それこそが真の歴史ということになります。

たとえば、正史に残るネイティブ・アメリカンの物語は、事実からは程遠く、よって、その事実を誰かがきちんと辿り、そこから、真実を見ていかなければならない、ということを、氏は、『叛アメリカ史』のなかで書いています。70年代に出版になった本で、わたしは、80年代の終わり、ニューヨークに住み始めてから読みました。わたしは、AIM (American Indian Movement) というものの存在を、それまで知りませんでした。氏は、一貫してその視点に立って、さまざまな国家、文化、民族の叛史を小説にしてきましたが、『叛アメリカ史』の出版から40年近くも経つ今日まで、やはり歴史は正史のものであり、それだけが信じられている、ということを、感じてもいます。

氏がわかりやすく書いてくださったように、「強者が勝つ」という正史が、人類の歴史であり、それがこの世界なのだと思い込んでしまうなら、自分の人生の歴史もまた、その論理によって編まれ、信じられていくに違いありません。

また、では叛く者、切り捨てられる者たちは、弱き者なのか、というと、そうではないのですね。年譜に残る勝敗を分けるのは、たとえば、『銃、病原菌、鉄』または『文明崩壊』(共にジャレド・ダイアモンド著)で描かれているようなさまざまな要因が絡まってのことなのでしょう。そんな要因で動く勝敗に、意味はあるでしょうか。

それよりも、その場で動いたそれぞれの心模様のほうにこそ、学べるもの、分かち合えるもの、従えるものがあるのではないかと思います。

自身の半生を振り返り、さまざまな出来事を羅列し、「良かったこと」「よくなかったこと」「成功したこと」「失敗したこと」「うれしかったこと」「悲しかったこと」というように歴史を編んでいくならば、そこからは、間違いなく、”事実”がこぼれ落ちていると言えるでしょう。

正史の視点でものごとを見ようとするなら、事実など見えないのは当然のことではないでしょうか。正史の意識から知覚するとき、つまり、「自分の勝敗の物語」としてものごとを見るとき、わたしたちは事実を見ていません。心には、勝ち負けは存在せず、そして、わたしたちは心でできているからです。 歴史は、心のものであって、形あるものではないのです。

事実が見えていないなら、そこにある真実に触れることはできません。つまり、自分自身に”ほんとうに起こったこと”に気づけません。

そこで、自分の叛史を見てみることにしたらどうでしょうか。

自分の年譜には載らない歴史。表向きではない歴史。たぶん、人の知らない歴史です。または、誰かにそっと打ち明けた断片で成り立っている歴史です。親や学校や上司や国家権力に刃向かおう、立ち向かおうとし、達成感あるいは敗北感または清々しさ等々の結果を得た歴史でもあります。意識することもなかった心の歴史でもあるかもしれません。

「自分の歴史と思い込んでいた正史には、ほんとうのことは含まれていなかった」

「今まで無視してきた心のなかに、自分のほんとうの歴史=叛史があった」

と、理解できるかもしれません。

思春期に異性にモテた、モテなかった。高校受験に合格した、失敗した。就活に成功した、落ちこぼれた。病気になって回復した、しなかった。事業に失敗した、成功した。破産した、貯金が一千万円に達した。そんな年譜から離れて、誰かを好きになったときの気持ち、恋にやぶれたときの気持ち、一生懸命打ち込んだ仕事をやり遂げたときの気持ち、人に理解してもらえなくてひとり涙したときの気持ち、、、気持ちの歴史を綴ってみたら、、、自分の歴史とは、ある振幅の繰り返しであり、それは、自分の心のなかで、いつも、何かが、何か同じもの、何かとてつもない力を持ったものが、芽を出そう、伸びよう、広がろう、としていることと、それに怖気づく思いがその力を押しとどめようとしていることに関わっているのではないかと、気づくのではないかと思うのです。

ならば、人生とは、怖気づく思いが引き下がり、芽を出している力が伸びやかに広がる瞬間を目撃するということの繰り返しではないでしょうか。そして、それならば、怖がりの自分の思いを、喜んで脇に置きたいと思わないでしょうか。

心の歴史をこそ、輝かせたいと願うなら、今すぐに、心のなかの光の存在を認め、注目することから始めたいと思います。それよりほかに、意味のあるものを目撃する道はないのだから。