自分自身をAという個体とみなすとき、必ず、他者としてのBが現れます。

AとBは、たとえふたりともが「わたしたちは同じものを見て同じことを考えている」と主張しても、たとえば単純に、AとBが向かい合っているなら、二人は反対の風景を見ていることになります。ビーチに並んで腰をおろし、水平線を眺めていても、Aは遠くを過ぎるヨットの帆に意識がいき、Bは、ゆっくり姿を変えていく雲の輪郭に気を取られているかもしれません。

AとBは、永久に、同じものを知覚することはできません。

それが宿命です。

なぜなら、Aという個体にとって、他のあらゆるものは、 異物だからです。

そして、Aという個体にとって、関係とは、AとBというそれぞれの個体の間にあるもの、両者を結ぶ一本の線のこと、とされています。誤りなのですが、これが、自我の見る、人間関係です。人類の歴史のすべてでもあります。個体と個体をつなぐ一本の線=関係を、どのように使い、どのように操作し、どのように自分を守っていくか、いわばその“出来高”によって、人生は成功だったり失敗だったりするわけです。

A子さんが、 B男くんと共にあって、苦しい生活を強いられているとします。B男は、アルコール依存症で、日常的に暴力を振るいます。職を得ては失い、家族の経済を支えているのはA子さんです。

「なぜこんな人と一緒になってしまったのだろう」「なぜこんな人と別れられないのだろう」

「自尊心が低いからかもしれない」「自尊心が低いのは、わたしの子供時代の経験が影響しているのかもしれない」

確かに、そうなのかもしれません。A子さんは、自分自身の誇り高さを感じることができず、自分はダメ人間だと思い込んでいて、優しい愛情に包まれるという記憶がどこにもなく、そのために、無意識に、そんな自画像を証明してくれるダメ男くんを選んでいるのかもしれません。

それにしても?

それにしても、なぜ、よりによって、“この”B男くんだったのでしょうか。自尊心の低さを映し出してくれる“ダメ男”は、B男くんだけではないでしょう。なぜA子さんはあの年のあの日にB男くんと出会い、惹かれあい、うまく機能しないパートナーシップを始めることになったのでしょう?

クォンタム・ヒーリングは、このような具体性を大事にするところからスタートします。

「なぜわたしは“ダメ男”くんとこんな生活をしているのだろう? 何が間違っていたのだろう?」と考える代わりに、

「なぜわたしは、B男くんとこんな苦しい時間を過ごしているのだろう?」

と、考えるのです。決して、B男くんを名無しの権兵衛にはしないのです。B男くんが、他でもないB男くんであることを重視します。

前者のように考えるなら、B男くんという個体を置き去りにしたまま、A子である自分自身をのみ、追求していくことになります。「なぜわたしは〜」「なぜわたしはいつも〜」。。。わたし、わたし、わたし、わたし、、、「わたし」という個体のことをどれだけいじりまわしても、何も出てきません。永久迷路にはまるだけです。

後者のように、「なぜB男くんなのだろう?」と考え始めるならば、AとBをつなぐ線のありようが見えてくるきっかけがつかめます。

今、起こっていることは、二人の間に起こっていることです。自分の反応には、必ず特定の相手がいるのです。

あらゆる“自分の”問題を、「他でもないこの特定の人との関係において」見つめていくならば、「わたしって、、、」という暗い穴のなかに閉じこもらずにすみます。

たとえば、こんなふうに考えが進んでいくことがあるでしょう。

わたしは今、B男くんとの関係において、卑屈な態度をとっている。怒りでいっぱいなのに、B男くんに依存している。B男くんが変わってくれると信じたい。B男くんを変えられるのはわたししかいないと信じたい。

そもそも、わたしがこの関係でこんな態度をとるのは、母親がアルコールに依存して、わたしたち家族を見捨てたことと直接つながりがあるように思う。そして、父親が、家族を顧みない、見てみる振りをしていたこととつながりがあるように思う。わたしは、弱い心を持った両親を恨んでいる。

でもわたしは、母親がそうなった理由を知っている気がする。母も、じゅうぶんに愛され大事にされた経験を持たないのだ。母方の祖父は早くに戦死し、祖母は極貧のなか、母と母の兄弟たちを、怒鳴り散らしながら育てなければならなかったのだ。

ということは、わたしの自尊心の低さは、祖父が戦死したことと関わりがあるのだろうか? もし祖父が生きていれば、家族の関係は違ったものになり、わたしの性格も生き方も人との出会いも変わっていただろうか?

父もまた、戦争の犠牲者と言える。父の両親は満州からの引き揚げ者だが、祖父が要職についていた祖父が厳しい軍人タイプだったために祖母は心を病み、父の弟にあたる息子を誤って死なせてしまった過去がある。父はそんな家族のなかで、なにもかも見て見ぬ振りをして自分を守ってきた人だった。

父の両親が満州に行かなかったら、祖父が政府の要人とならなかったら、父の人生は違ったものになり、わたしの性格も生き方も人との出会いも変わっていただろうか?

父の死後、古い笛が出てきた。わたしが子供の頃、見せてもらったことがあると思い出した。父は、祖父に隠れて、ときどきその笛を吹いていたのだそうだ。たぶん父は音楽が好きだったのだ。わたしと同じように。そしてそれをあっさりと諦めたのだ、わたしと同じように。

わたしは戦後ずいぶん経ってから生まれたけれど、わたしの人生は、このように、戦争に影響を受けているのかもしれない。あの戦争がなかったら、わたしの人生は違っていただろうか。

あの頃、欧米に経済危機がなかったら、日本の陸軍があれほど独裁力を持たなかったら、インドがイギリスから独立しようとしていなかったら、ロシアに革命の嵐が吹き荒れなかったら、ヒトラーが現れなかったら、ルーズベルトが違う戦略をとっていたなら、わたしの人生は違ったものになり、B男には出会わず、別の人と、誇りを持って生きていられただろうか。もしかしたら、結婚を選ばず、音楽家の道を進んでいたかもしれない。。。

でも、実際には、わたしは、自分はミュージシャンだと言い張っていたB男を支えたいと考えて、そちらの道を選ぶことになった。。。

******

以上のように考えていくと、自分の今の人生の状況と、両親の人生、祖父母の人生が密接に関わっているのがわかります。考えを進めれば、もっと遡った先祖とも関わっていることがわかるはずだし、すでに見てきたように、世界情勢、そのときどきの各国各分野のリーダーや、社会のあちこちで起こる事件の数々もまた、自分の状況と無関係ではないことに気づくでしょう。

「わたしの自尊心の低さの原因」は、ひとつではなく、どれと特定できないほど世界中を巻き込んでいるものなのです。

そしてまた、ミュージシャンとして身をたてたいと願いながら、実際にはアルコール漬けの生活を送り、妻に暴力を振るいながら卑屈になっているB男くんも、A子さんと同様に、世界中のさまざまな関係の影響を受け、その影響を、日々、さまざまな形で再生しつつ生きているのです。

すなわち、このように言うことができます。

① A子もB男も、古今東西のあちこちに伸びていく無数の“線”(=関係)の影響を受けている。

② A子もB男も、その影響を、繰り返し再生して生きている。

③ 再生することによって、その影響を強めている。

④ 古今東西のあらゆる“線”の影響を強めることによって、それらの “線”のそれぞれを振動させてきた苦悩や痛みを肯定し、加担し、実在にしている。

あえて、乱暴に、ひとことで言うならば、A子さんは、B男くんとの関係に苦しみをみることによって、古今東西の歴史のなかでお互いに影響し合ってきた、“関係の線の苦悩の震え”を強化し、守っていることになります。

そして、その“関係の線の震え”は、Aという個体とBという他者の個体との間を線でつなぐ、という視点でものをみる限り、避けられないものです。なぜならば、それぞれが、すでに他のさまざまな個人間の線に含まれる葛藤や苦悩を持っているので、その二人の間にひかれる線にもまた、葛藤や苦悩、分離と孤立は避けられずに含まれるからです。

自分という個体から伸びていくたくさんの線を書き出してみるとわかりやすいでしょう。「わたしは引きこもっているから」という人でも、いくつもの線が描けるでしょう。そしてその相手の向こうにも、たくさんの線が伸びていくでしょう。

その線の絡まり具合、伸び具合の複雑さと膨大さといったら! カルマというものは、たった二人の間に生まれるものではないのです。膨大な意識のつながり、つまり集合意識そのものが、カルマなのです。

その多数の線の絡まりあいのなかで、1970年に大阪で生まれたA子さんと、1974年に新潟で生まれたB男くんがつながるのです。

B男くんは、A子さんが見つけ選んだ人ではないのでした。線がつながったから、お互いを見つけ、お互いの存在が際立って感じられたということなのでした。

つまり、二人の出会いは、二人が選びとったものではなく、 起こるべくして起こったものなのだということができます。

A子さんは、「なぜこんな人と一緒になってしまったのだろう」「わたしの自尊心が、、、」などと自分の落ち度を探し、自責の念にかられる必要はないのです。

いずれにしても、そうなるようになっていた、のですから。

自分の過ちで出会ってしまったわけではないのですから。

まずは、

「自分のせいじゃない」

ということを受け入れましょう。

「ただ、古今東西の集合意識の影響の結果を見ているだけだ」

と思い出しましょう。

“現れるべくして現れた人”として、B男くんを見てみましょう。

それだけでも、B男くんの姿が違って見えないでしょうか。

確かに、何か大きな力が、二人を引き合わせたのだと感じられないでしょうか。

複雑に絡まりあった古今東西の“線”の結果として、B男くんが現れたのには、何か大きなうかがい知れない力、一定の法則があってのことだと思えないでしょうか。

シナリオはすでに書かれていたのです。

そのシナリオは、無数の関係が絡まりあった集合意識でできています。

そして、そのシナリオには、常に、ひとつの声が内包されています。

「あなたが見ているのは結果である」

「でも、あなたは、結果であることをやめることができる」

「すでに書かれたシナリオのテーマを、あなたは変えることができる。 そのために、あなたに、B男くんが用意されたのだ」

というものです。

A子さんとB男くんは、二人の間に横たわる“線”を正直に見つめ、それが過去の集合意識の結果だということを認め、そもそも、二人を分離した他者とするために作られた“線”を共に消していくことのために出会ったのです。

自分を変えよう、相手を変えよう、とするのではなく、

過去を探って、特定できるはずもない原因を見つけよう、とするのでもなく、

二人で、集合意識の結果を演じる代わりに、シナリオのほんとうの目的を「共に果たしたい」。

それが自分の心からの願いだと気づくなら、ヒーリングの成就は目前と言えます。

 

プラクティショナーの紹介は、下記のリンクをご覧ください。

http://ameblo.jp/quantum-prayer/theme-10097007177.html

「心のなかで、自分が演じてきたドラマのテーマを変えられるということを思い出すこと、それによって、わたしたちはドラマの進行を止め、ストーリーを変更し、嘆きと恐れ、快楽と痛みを、喜びと平和、情熱と信頼のステージを創造し、分かち合うことができます。ただ、思い出すことによって、です。」(「『奇跡のコース』のワークを学ぶガイドブック4 聖なる関係②」p.31)