想像力を使いましょう。

想像の力を借りて、創造の海に戻りましょう。

そう書いてきました。

 

“問題”を見るとき、わたしたちは、AとBの点をつなぐ直線の時間軸のどこかに立っています。A とはもちろん、誕生時、Bは死亡時です。直線は、人生の時間です。

 

A    ——————————————————————————→ B

 

実際には、そんな時間軸は存在しないので、無意味に想像力を使って、不毛な“問題”を抱えていることになります。

わたしたちは、死にません。Bという点はありません。当然、Aという点もありません。ですから、その二点をつなぐ線はありません。

どこにもないところに自分の人生を見ている、という状態は、いわば砂の上の楼閣で、不安と疑惑、迷いと恐怖に満ちていますが、でも、この幻想上の線のなかに、一箇所だけ、真の現実が姿を現している場所があります。

「今、ここ」です。

「今、ここ」に意識を向けるなら、そこが、創造の海への入り口だということがわかります。というか、経験します。線の消滅と一緒に、問題も消えます。

 

A     ——————————————⦿————————————→ B

                                                           ↑

                                     「今、ここ」=創造の海への入口

 

ということは?

そうです、“問題”とは、それがどんな種類のものであれ、その海に泳ぎださなくてすむように、創造の力を感じなくてすむように、自由にならなくてすむように、不自由と限界にしがみつくための、自我の装置なのです。

わたしたちの自我は、問題が大好き、である以上に、問題なくして生きてはいけないのです。

ですから、自我が考えていることといったら、せいぜい、「この問題にはもう懲り懲りだ。別なことに悩みたいな。気分を変えて、エネルギー充電したいな」といったところです。つまり、ひとつひとつの問題はなんとか解決するかもしれないけれども、「問題がある」という状態は、ずっと続くということです。

しかも、問題をみるとき、わたしたちは、必ず、人を巻き込みます。Aである自分に問題があるからといって、そっちにいるBさんには関係ない、とはなりません。

誰もが、大事な人を守りたいと思うでしょう。「この子には関係のないことです」「あの人に罪はないんです」というような声を耳にすることがありますが、親の思いに子が関わらずにすむはずがないし、子の思いとは離れて親が生きるわけにもいかないのです。

自分がAである限り、必ずBが現れ、その二点は線で結ばれてしまいます。Aである自分の、創造性や自由への抵抗は、すぐさまBさんに投影されて、Bさんのなかにも抵抗を作り出します。

自分を個人としてとらえるならば、すなわち、世界地図の真ん中に自分を置いてまわりを眺めるなら(自分=A)、必ずBはそこに現れ、そして二人は目には見えない線で結ばれ、一見ばらばらに、でも実は同じ運命をたどります。もうひとつのAとB、誕生から死にむかう一直線を不自由に歩いていく、という道をそれぞれに歩むのです。

一方、A である自分が、「今、ここ」の風穴から、自由な空気に触れるとき、Bもまた、その穴から外に出ていきます。

このことを思い出すなら、「大事な人たちのためにも」風穴を避ける抵抗をやめたい、と本気で思わないでしょうか。

わたし自身は、本気を出すには、それよりほかに方法はないようです(苦笑)。「この人が、ほんとうに解放されて自由に羽ばたけますように」と思わない限り、日常のあれこれに対処していく気力が湧かないどころか、昔の自分のように、生きる意味を見出だせず、倦怠という苦しみのなかに落ち込むことになるのは、経験上よくわかっています。

でも、それを理解することほど、嬉しく、救われる発見はなかったのです。

人のことを大事に思うなら生きていける、ということは、わたしのなかに、相手をなんとしてでも死なせたくない、死への行進の代わりに、いのちの海を満喫してほしい、という迸る気持ちがあるということだからです。

そのためなら、自我の抵抗を退けてでも、自分の焦点を風穴に合わせる、と決意できるのは、心のなかに、愛というものがある証拠ではないでしょうか。

そして、それは、わたしひとりのストーリーではないのではないでしょうか。誰でもそうなのだと、これも経験上、確信しています。

Bさんを救うために、Aという自分を消す。風穴を見ないようにするために問題にしがみついている自我を手放す。

二人で一緒に、幻想の死への道から、光への穴のなかに吸い込まれていく。

または、

 

問題にしがみついているAであるわたしは、自我の抵抗で風穴を見つけられない。

だから、Bさんに信頼を寄せて、一緒に風穴を通り抜けてもらう。

Bさんは、喜んで了解してくれるはず。

なぜなら、Bさんだって、ほんとうは問題にしがみついていたくないのだから。

 

クォンタム・プレイヤーのプラクティショナーは、このふたつのどちらかを、いつも行っています。

わたしたちにとって、人生とは、いつも、このふたつのどちらかの状態です。

 

プラクティショナーはまた、風穴の見つけ方を知っています。

風穴、すなわち「今、ここ」という一点は、AとBの二点を見る方法では見つかりません。

肉眼は、必ず、Aというこちら側の主体が、Bという客体を選んで、そこに焦点を合わせ、像を結ぶ、という構造でものを見るようになっています。Bを選ぶには、その他を排除しなければなりませんし、排除の基準も決めなければなりませんが、わたしたちは、その時々の思いや感情のあり方によって、Bを選ぶわけですから、実は、基準などないわけです。判断の基準がないまま、判断し、その曖昧な客体に、自分の問題や、問題に対する自分の感情や思いを投影し、さらに曖昧なBという“存在”を作り上げています。

B さんに対して、責任大あり、なのです。

一方、風穴を見つけるには、AとBをとりあえず特定し、像を結び、線でつなぐ、という肉眼のものの見方とはまったく違う方法が必要です。

まず第一に、AとBを見る代わりに、AとBを視界から消したときに残る“線”という残像だけを見なければなりません。

AとBがあるので、その間に線が引かれたのだから、 AとBがなくなれば線が残るわけがないではないか、と思うかもしれませんが、これは必ず残るのです。

この残像とは、つまり、AとBの共通点のことです。AがBを作り出した曖昧で矛盾だらけに基準のことです。

この残像を両手に抱き、心の祭壇に捧げることによって、祭壇の奥の扉が開き、風穴が姿をあらわすのです。

AとBの力学、線だけを見るということ、祭壇への捧げ方は次回に。

 

 

プラクティショナーの紹介は、下記のリンクをご覧ください。

http://ameblo.jp/quantum-prayer/theme-10097007177.html

「 関係とは、知覚を超えた、実在の心と心のつながりのことです。ほんとうの人間関係なしで、平和を感じることはできません。聖なる関係、心のつながりを創造する方法は、人生を、与え続ける道にしてしまうことです。」(「愛とは夢から目覚める力です 」p.146)