“効く祈り“は、ひとつしかありません。

全身全霊で行う祈りです。

「自分でも手を尽くすけど、一応神様にも祈っとこう」では、心を傾けていることになりませんし、

「一か八か祈ってみよう。もしかしたらうまくいくかも」では、祈る相手を信頼していないので、その祈りが叶えられたとしても、見逃してしまうでしょう。

自分でできるかも、自分でも頑張らないと、と思っているうちは、祈りにまごころを込めるのは難しいのではないでしょうか。

「健康になるよう助けてください」という祈りに、まごころはあるでしょうか。

「仕事がうまくいき、お金が回るように助けてください」という祈りに、まごころはあるでしょうか。

「夫の病が治りますように」という祈りに、まごころはあるでしょうか。

あるように見えますか?

ほんとうに?

そのように祈るとき、「自分でもいろいろやってみるけど」「一か八か」という思いが入り込んでいないでしょうか。

祈りというより、要求、になってはいないでしょうか。

祈りとは、分裂した、引き裂かれた思い、矛盾する思いを一掃して、

 シングルマインド

に戻ることにほかなりません。

そのためには、たった今、シングルマインドになっていないこと、心に矛盾やアンヴィバレンツを抱えていることを正直に認めなくてはなりません。

健康になるように助けてください、といきなり飛びつくと、自分の心模様は見えなくなってしまいます。

わたしは、右膝の痛みを二年も抱えている。

  • わたしは、ひどい肩凝りをそのままにしている。
  • 胃腸が疲れているのを知りながら何の処置もしていない。
  • 理想体重より5キロも太っている。
  • 毎日夕方になると激しい疲労感に襲われる。
  • 癌が再発するのではないかと怖くてしかたがない。
  • 毎朝ジョギングしたいのにできていない。
  • 昨年から花粉症にかかるようになった。

以上の状態が、

  • わたしを怒りっぽくしている。
  • 集中力散漫にしている。
  • 体力に自信がないので、活動的になれない。

ああそれほどまでに、身体の愁訴が自分を支配している、自分を制限している、という現状をまっすぐに見据え、気づくことができると、

なんとまあ、わたしは自分をみじめな存在にしていることか。

身体のせいにしながら、どれだけ自分の人生に限界を儲けているか。

ということが、見えてきます。

仕事がうまくいくように助けてください、と飛びつく前に、心模様を観察するなら、

  • このままでは破産に追い込まれるとわかっている。
  • 従業員を減らさなければならないが、“鬼にはなれない”と思っている。
  • ほんとうは、こんな事業を続けたいわけじゃない。
  • コンサルタントはつけているが、そちらの支払いさえできていない。
  • プレッシャーでアルコールに依存するようになった。
  • ついに自分の子供に借金するようになっている。

以上の状態が、

  • 若い頃から続けてきた唯一の趣味、尺八演奏から自分を遠ざけてしまい自分が空っぽに感じる。
  • 人生の意義がまったくわからなくなった。
  • 妻に感謝しなければならないが、実際は言葉をかわずことも滅多にない。

というように見据えると、

なんとまあ、わたしは自分をみじめな存在にしているか。

どれだけ人生に制限をかけ、ちっぽけなものにしているか。

ということが見えてきます。

夫の病が治りますように、と祈りにとびつく前に、

  • 夫の死を想像しない日はない。
  • その恐怖で夜中に目が覚め、眠れず悶々としている。
  • 夫がいなくなったら生活はどうするか、心配でしかたない。
  • 気落ちしている夫を見るのがつらくてたまらない。
  • 誰もがいつかはこうして朽ちていくのかと考えてしまい恐怖にかられる。
  • 夫が元気に仕事に復帰できるようになったら、ヘルシーな料理を作ってあげたい。今は自分の分さえ料理する気力がない。

等々、心や日常をよく見渡すと、

  • 夫の病という思いがけない災難に人生の情熱を奪い取られている自分がいる。
  • 希望が見えず、自分の体調も思わしくない。夫の痛み、苦しみを自分のことのように感じたがっているようで、実際にあちこち痛みだした。
  • 精神安定剤を飲み始めたが、そんな薬を飲んでいることに罪悪感がある。

ということも挙がってくるかもしれません。ここでも、

なんとまあ、わたしは夫の病に罪を着せて、自分の人生の責任をとることから逃げているか。

ということが見えるでしょう。

わたしたちは、こんなふうに、さまざまな問題を使って、自分を制限しているものだと思います。

より正確に言うなら、自分を制限し、小さき者にし、それを人のせいにするために、問題をこしらえているのです。

希望なし。

絶望的なのです。

自分で、そのような姿勢を変えようとしても、「自分はできる」「自分は治る」などと思い込もうとしてみても、自分の思いというものは、どれも両面感情を含むものなので、どうしても思いは分裂してしまうのです。

それがしみじみとわかったら、祈れます。

自分の心が、どんなにみっともない状態になっているかを認められたら、問題解決のために、自分がどんなに奇跡を必要としているか、奇跡が起こる以外に解決策などない、ということがわかったら、奇跡を求めて、祈れます。

お手上げなんです。わたしが自分で作り出した山ほどの制限を、どうか、丸ごと、持っていってください。

そのように、自分を差し出し、頭を垂れることができます。

そして、そのような祈りは、必ず、奇跡をもたらしてくれます。

さらに、そのたびに、心に安心と信頼が育つのです。

 

みっともなくて大丈夫、助けてもらえるから。

自分で解決しようとしなくて大丈夫、できるものではないから。

何事にも不安をもたなくて大丈夫、奇跡がいつも救ってくれるから。

 

この最初のステップだけでも、奇跡は起こり始めます。

奇跡とは、自分がでっち上げた、偽りの自分像を暴き、剥がし、本来の自分の姿を現すことだからです。

 

プラクティショナーの紹介は、下記のリンクをご覧ください。

http://ameblo.jp/quantum-prayer/theme-10097007177.html

「自分を弱いと感じるなら、わたしは、自分を分離した、罪ある存在とみなしていることになります。ならば、他人を攻撃するとは、その人の罪のなさを攻撃していることになり、それは同時に、自身の罪のなさを攻撃していることにもなるわけです。その人を非難する理由は、自分自身の罪のなさを非難するためだったのでした。罪のなさを認めてしまったら、この分離の夢の世界を手放さなくてはならなくなるからです。」(「奇跡のコース」のワークを学ぶガイドブック13 「奇跡とは何ですか」より)