クォンタム・プレイヤーは、”問題”を一掃します。

その”問題”が、長い間抱えてきたものであっても、さまざまな療法を試してだめだったというものであっても、関係ありません。祈りに、難易度はありません。

そしてまた、”問題”の一部だけが癒され、解決されて、別のものが残るということもありません。ひとつの”問題”がなくなるということは、すべての”問題”がなくなるということだからです。

身体の機能がホリスティックなものであるように、祈りもホリスティックです。

オーケストラの団員が、それぞれに不協和音を奏で、耳をつんざく騒がしさが止まらないというとき、バイオリン奏者がそのめちゃくちゃな音を出すのをやめるなら、他の楽器も止まるのです。音を出させているのは指揮者なので、オーケストラの調和を取り戻すには指揮者がバイオリンの外れた音をやめさせるだけではだめで、すべての音を一旦止めて、指揮を取り直さなければなりません。

そして、その指揮者は、それまでとは別の人でなくてはならないでしょう。音がめちゃくちゃで、調和がとれず、一曲も完成されたものがなかったのは、指揮がめちゃくちゃだったからです。

指揮者交代。

 

そうして、改めて、団員がその指揮に意識を集中して、それぞれのスキルのありったけを、表現し始めるのです。

わたしたちは、自分で自分の人生の指揮をとらなくてはならないと思い込む癖がありますが、自分が指揮者になってしまうと、うまくいきません。オーケストラの団員全員を、自分の指揮下に置くことは、不可能だからです。たぶん、誰かの能力が足りません。たぶん、誰かの波長が合いません。たぶん、誰かは指揮者に反抗します。メンバーを取り替えても同じことが起こります。

それで、指揮者はいつも、必死になり、また、感情的になっているのです。

クォンタム・プレイヤーとは、不適切な指揮者のために、どんな不協和音が鳴り響いているかを冷静に見わたし、オーケストラのどのパートも、同様に、不適切な指揮(めちゃくちゃな指揮)に従っていただけだったのだということを理解することから始まります。

そして、プラクティショナーとともに指揮者の台から退いて、完璧な指揮者を招きます。「この楽曲を、これ以上にはあり得ないほどの、今まで聴いたことのないほどの、傑作にしてください」「作曲者が、この曲にこめた思いを、百倍に豊かにして表現し、応えてください」「今までにない豊かさ、美しさ、伸びやかさを、どうぞあなたの指揮で、聴かせてください」と祈ります。

クォンタム・プレイヤーは、

わたしが上手く指揮がとれますように、ではなく、

この上なく美しい楽曲を聴かせてください、と、

 

祈りにこめる思いをシフトさせます。

 

これは、ひとりではなかなかできません。指揮台から降りるのが怖くって。楽団が響かせている音はめちゃくちゃ、指揮者である「自分の気も知らないで」勝手なことをしているし、あわてている間に、曲は第二楽章に進んでしまうし、、、この状態を打ち捨てて指揮台を降りるなんて“狂気の沙汰”に思えます。

でも、クォンタム・プレイヤーは、プラクティショナーと手を取り合うことによって、指揮台から降り、自分を、プロデューサーに“格上げ”します。プロデューサーとは、もちろん、何よりも音楽を愛し、音楽を信頼し、その美しい音楽を味わうことに人生を賭ける人のことです。指揮台の上で、「なんとか自分が自分の音楽を作り上げてみせる。団員をまとめあげてみせる」と躍起になる人ではなく。

プロデューサーになってみて、はじめて経験できることがあります。

長男の問題は解決した。次は三女のことだ。—–クォンタム・プレイヤーでは、長男の問題が解決するなら、三女の問題も消えます。

喉の痛みは治まった。次は膝だ。—–クォンタム・プレイヤーでは、喉も膝も共に治ります。

つまり、クォンタム・プレイヤーとは、障害をひとつずつ取り除いていくものではなく、”問題”がある状態から、”問題”のない状態へ人生を変える祈りなのです。

 

プラクティショナーの紹介は、下記のリンクをご覧ください。

http://ameblo.jp/quantum-prayer/theme-10097007177.html

「わたしが、わたしの心を統治しています。わたしだけが、わたしの心に責任をもっているはずです。—世界全体を、自分の心として、そして自分とは、その広大な心の統治者なのだという思いをもって、そのすべてに、神の愛が降り注ぐのを感じましょう。」(「奇跡のコース」のワークを学ぶガイドブック9 レッスン236)